アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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”現代思想としてのギリシア哲学” アリアドネ・アーカイブスより

 
<目次>

第1章 哲学誕生の瞬間――タレス
第2章 逆説の宇宙――ヘラクレイトス
第3章 存在の永遠――パルメニデス
第4章 非知の技法――ソクラテス
第5章 ギリシア霊性――プラトン
第6章 あたかも最後の日のように――M・アウレリウス
(このほかにプロローグとエピローグがあるが、重要ではないので省略する)

通常ギリシア哲学というとプラトンから始める。それ以前は例えば、宇宙の根本構造は何かと問うて、水であるとか、火であるとか、空気であるとかという問いを立てて議論したらしいことから、教義の哲学からは区分して、自然哲学の時代という説明がなされていた。つまり、時系列的に言うと、最初に自然の森羅万象を問う自然学があり、そのあと人間に関心が移り哲学に進化した、という説明がされていた。

この概説書の特色は、350ページほどの紙面を費やして、一応ソクラテス以前の哲学者たちについて、最低三名を選んである程度詳細な解説を加えていることである。新鮮な読みを可能にしているのは、哲学の始祖と呼ばれているタレスが生きた時代の思想的な環境を、神の死の時代、と定義したことである。つまり、自然とはなんぞやという素朴な疑問で古代ギリシア人は哲学を問い始めたのではなく、神の死の時代という認識があったというのだ。作者の古東哲明さんはそこにギリシア哲学を論じることと現代の共通する課題を見出している。

この書の内容を簡単に要約すると、
タレスの意義は、世界がいかにあるかではなく、在るという在り方に驚いたのだという。
パルメニデスにおいては、後にアリストテレスによって概念化される現象と本質という二元論以前の曇りき透徹したまなざしによって、真にあるものは流転するものであること、つまり諸行無常を捉えたことにあるという。これだけでも素晴らしい記述である。
パルメニデスにおいては、流転する万物を超えてなお存在するものの実相について問うたことであるという。もしそうだとするならば、パルメニデスにおいて哲学史は大きなターニングポイントを回ったことになろう。哲学の中興の祖、とでも言える大きな評価が与えられるべきである。
ソクラテスとは、パルメニデスが問うた問いに答えて、世俗性に対置される叡智的なものの在り処を暗示し、その哲理に自らも殉じて見せたこと。
プラトンの評判の悪いイデア論にしても、アリストテレス的な現象―本質の概念的枠で理解すべきではなく、そこにはせめぎ合う両義性の均衡とでも言えるヘラクレイトス的な命題の継承があったこと。

ストア主義とは、この世の世俗性を超えて、つまりソクラテステスが切り開いた叡智界から、つまりこの世を外側から見る、自然神の視線であったこと、アタラクシア無感動の理想、とはそうした生き方であったという意味で、神なき時代の現代人にも共感をえる生き方であること、ただしアウレリウスのストア理解の独自さは、神の摂理という自然神の視線が持つ無記名性に、一期一会とでも言える人間の実存を持ち込んだこと、――私流に要約すればこのようになるであろうか。

読者から注文をつけるとすれば、プロローグとエピローグのような導入部は要らなかったのではないか、ということ。それから分量からみてもっと多くの哲学者を紹介しても良かったのではないのかという点、それからなぜアリストテレスを飛ばしてアウレリウスなのか、説明をしてほしかった。周知のようにアリストテレスプラトンの文脈からは離れた存在ともいえるので、批判的な見地からあえて外されたのかとも思っていたのだが、後半、アリストテレスの重要概念、キネーシスとエネルゲイアの外苑区分に諸手を挙げて賛成しているところをみると、そうでもなかったのかなという気持ちになり余計判然としない。

古典ギリシア哲学を通史として説明する場合に、哲学をめぐる<外>と<内>の概念において、<外>が意味するものが何であるかが気になった。これは古東さんの哲学理解に関する全体的な姿勢そのものにかかわるものなのであるが、世俗性とそれを超える叡智界という二元論的な構図がやはり何と言っても気になる。

これは古東さんのソクラテスアリストテレス理解の根幹にかかわる問題である。ソクラテス的な知は単に世俗的な知の専門家であるソフィスト的な生き方に対して、この世を超越するような<外部>の眼を提起する存在である、とする理解で良いのだろうか。これでは後にイエスがソロモンの映画に野のユリや小鳥の自由さを誇った論理とそう違わないのではないのか。古東さんの論理を使えばそのまま肯定的なキリスト像――伝統的な新約聖書理解がそのまま帰結されるのだろうか。

アリストテレスは、何よりもまず、人間にできることとできないことを峻別し、人間の哲学を、とは超越的概念の世俗内内面化を指向した。アリストテレスは哲学の<外>という考え方に激しく抵抗しただろうと思う。それは哲学を、知の論理的な枠組みとして捉えるのか、それとも世俗に生きざるを得ない人間の、行為と切り離しては論じえないことを、厳しく戒めた生き方の違いであると思う。


古東哲明”現代思想としてのギリシア哲学” 2005年4月 第一刷 ちくま学芸文庫