アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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サレジオ通り 目黒碑文谷のあたり――秦恒平『親指のマリア』の思い出 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 
 
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 もう随分昔に読んだ本に秦恒平と云う人の『親指のマリア』と云う本があって、内容は江戸期のキリシタン司祭の殉教ものということで遠藤周作の名作『沈黙』のようなものを想像していたら、こちらは入国するとさしたる抵抗もなくあっけなく逮捕され、まるで殉教するために密入国したのかと思えたほど無防備でその宗教性と云うか無垢な純粋な姿勢に驚くと云うよりも言葉を失ったものである。
 読んでいて納得したのは、日本などに宣教に来るカトリックの司祭などは比較的身分階層が高くこの世離れしたところがあって、この小説の主人公宣教師シドッチもポルトガルのさる貴族の次男坊とある。ヨーロッパの貴族階級に於いては長男の世襲制のため二男以降は養子縁組か教会にいるか軍人になるかするほかはないのである。しかもこの場合”ノブレス・オブリージュ”と云って、高貴な家系に生まれたものは高貴な生き方をしなければならないと云う伝統的に慣習的な考え方も一方にあった。この純真な青年はそのノブレス・オブリージュを原義のままに丸ごと信じて日本への渡航を企てたことになる。当時の日本の状況などを誰も教えてくれなかったのだろうか。と云うか新井白石の時代と云うから、江戸初期のキリシタン禁制の時代の記憶は遠のいて、人々の記憶も文献としてすら薄らぎかかっているほど遠い昔の出来事の再現に驚いた江戸の役人たちの慌てぶりがやや滑稽にも描かれている。だから殉教すると云っても、遠藤の作品のように拷問の過程が苛烈に且つリアルに描かれるわけではない。むしろ困惑した江戸幕府のお役人は学者の新井白石に下駄を預けてしまい、その白石が尋問――尋問と云うより”未確認的事象”を調査するための学術的討議――を続けるうちに最初は南蛮国の野蛮人と高をくくっていたシドッチが高度の教養と見識を持った青年であり、むしろ白石その人をして密かに恐怖にも似た敬意を抱かせるに至り、”世界史の中の日本”と云う当時決して口外してはならぬ普遍的秘密を白石の内面に抱かせるに至るのである。後の攘夷などと云う発想ではなく、あくまで異質の存在を前に道理として対応しようとしたのだから流石白石と云うべきか。秦の記述を信ずれば当代随一の学者・新井白石と互角に応答したというから大変なものである。しかし知性に反比例するかのようにシドチの身すぎ世すぎの拙さは、幼児の如くであった。
 白石は道理を持って、同時に思いやりを持ってなんとかシドッチの罪を免れさせようとするのだが、もともと自殺願望に近い宗教的素質の青年なのであるから無駄骨を折ることになりかねない。たまたま当時シドッチを収容していた奉行所には二人の男女の元キリシタンの信者も入牢していたのだが、この二人もシドッチに感化されて共に殉教の列に加わっていくのである。その最終場面は感動的である。もし神がいなくても自らの信条の赴くまま人は死に得るかと云う重要な問題が提起されている。後に散華の思想を持つ日本人ならではの問題提起であると云ってよい。勿論この辺は秦氏が自覚的に書いていることではなく三島のシンパとしてのわたしがこう書かせるのである。
 殉教がもはや意味を持ち得なくなった時代における孤独で無残な死、前例もなければ彼らの後に続く後続の巡礼者もいない、犬死に等しいと云ってもいいような死にかた、しかしシドッチにとってはもはや絶滅していたと思われていた鎖国日本における生き証人としてのキリシタン二人との邂逅を果たすことは一つの確証、宗教的な啓示に等しいものであったのである。そしてそれ以上に秦氏は青い静謐そのものと云っていいい聖母の面影に愛の記憶と、愛の面影への殉死を小説的ロマンティシズムとして読みこんでいる。何となれば≪悲しみの聖母≫は本国イタリアに於いてもそのモデルは誰であったかをめぐって論議されたころもあったのである。それがどのような理由と経緯にに基づくものか姉妹各の≪悲しみの聖母≫の原画が流れ着いて日本にあることの経験はゆかしい。かく云う流れ着いて漂着した場所とは上野の森の国立西洋美術館常設展示場である。
 ところでその宣教師シドッチが密かに所持していたと伝えられる≪親指のマリア≫と呼ばれるもう一つのマリア様の画像のことだが、その原画が保管場所がかく云うサレジオ教会だったと云うのである。原画はシドッチが最後まで保持していたものだと伝えられ、長崎奉行所を経てどう云う理由に寄るのかこの教会に奉納されていたと云う。こちらの方は見るところシドッチの受難への道行きを伝えるかのように色彩も不鮮明のようである。玄関前のの説明によれば今は国立東京博物館の方にあると云う。いつかは博物館の奥深くに探し求めたいものだ。姉妹関係にある二つの聖母像が偶然の時を隔ててわたしの中で響き合う、これもまた床しい経験である。
 このよく似たモチーフを持つ二つの絵画の関係は、≪悲しみの聖母≫の方が作者も由来もはっきりしており、当時これかもしくはこれに類する絵画を元に宣教師シドッチのものは幾つか制作されたレプリカの一つではなかろうか。あるいは画題そのものが当時の流行のものであればこれらも共通の画像を元にして制作されたレプリカの一つであるのかもしれない。
 
カルロ・ドルチ1616―1687年                       国立博物館 ≪親指のマリア≫
≪悲しみの聖母≫1655年頃                                         イタリア17世紀 長崎奉行所旧蔵    
油彩/カンヴァス 82.5×67㎝                         重要文化財
 
 
 わたしはいままで何度も何回も西洋美術館は訪れていて≪悲しみの聖母≫の前には何度も立っているのに、秦氏の同書のことは忘れていた。秦氏には『罪はわが前にあり』などと云う表題だけを読んだらクリスチャンかと思えるような本もあるが、キリスト教への造詣の深さは別として『花と風』のような王朝文学と谷崎論に見るべきものが多い。その彼がその後キリスト教に帰依したと云う話も聞かないし一過性に留まるにしてはあまりにその学識は深遠である。どのようにしてこの絵画の存在を知ったのだろうか。わたしのように上野の森の美術館でみたあまりにも鮮明なラピスラズリの青に魅了されたのだろうか。それとも秦氏は現役時代の一時期の最後を大岡山にある大学に奉職していた関係からそこから二キロも離れてはいない碑文谷の坂道を降ったところにあるサレジオ教会に散歩がてら訪れたこともあったのだろうか。この辺は緑の多いところである。昔の武州や多摩に至る東京近郊の森や林そして竹林の一部が現在でも残る起伏の多いところである。その起伏が往古は丘と丘とを繋ぐ間の水田の稲穂のように波打っていたのだろうか。すぐる昨年、実際にわたしも大岡山の駅前から環七を抜けて家族の一人が住む東横学芸大前に向かう道すがら偶然に教会を発見したのであった。何れにしても教会玄関の大扉の前にに佇んで≪親指のマリア≫の由来を読んだ時、旧知の人間に再開しでもするかのような偶然の出会いにしばし言葉を失い、その感慨に時を忘れ、不思議さを寿いだのであった。