アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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浦上四番崩れと日本のキリスト教 アリアドネアーカイブスより

 
 
 BS・TBSのチャンネルを入れたら、浦上の四番崩れのドキュメントを遣っていた。途中から、――懐かしい長崎の明るい風光に思い出と郷愁を誘われて見始めたのだが、――浦上キリシタンのことは概略知っていると思っていたのだが、彼らが浦上四番崩れ以降の過酷な殉教の旅から帰って来たとき、「旅のことは語るな」と云うリーダー高木仙右エ門の統制された意志的な申し合わせのもとに、固く沈黙を保った事情については、よく知らなかった。知ってはいても、それを選択的に、卓越的に、焦点化して考えてみることはなかった。彼ら浦上キリシタンが、統一された集団的意思のもとに後世に至るまで沈黙を保ったために、その事実は彼らの後継者の間ですら長らく伝承されてこなかったし、地元のクリスチャンの関係者の間ですら知られていなかったという。むしろ地元の仲間内のクリスチャンの間で秘められたタブーとすることで何を守ろうとしたのだろうか。
 
 浦上キリシタンの人びとが等しく、一様に、沈黙しなければならなかった真実の意図とは何であったのか?
 
 浦上四番崩れと云う歴史上の出来事のあとで彼らが被った、受難の歴史については多くが語られてきた。その数三千を超える民が、名古屋以西の数十カ所の西南諸藩の地に配流された。彼らを待ち受けた尋問や拷問の過酷さ凄まじさについては近年その一部語られてきている。そこには信仰を守ったものもいたし、弱さゆえに棄教したものもいた。その両過程に分かれた浦上の民の殉教の苦しみもまた大変なものであったろうと察する。それ以上に出来事は終わらずに、明治政府の転換によって無事に浦上の村に帰村し、そこから再び生活者としての道を再建していく過程で、信仰を守り通したものとそうでないものの混在は、双方に於いて重苦しくのしかかって来たであろう。そこで重きをなすのが、やはり信頼できるリーダーの存在の如何で、彼は信仰を守り通したこともそうでなかったことも等しく差別されてはならないと考えたのである。それが彼らのこのことについては一切を語るまいと云う沈黙、そして禁欲を通じて仄見える寛容の精神へと繋がったのである。
 それゆえ、彼らは「受難」と云う呼び方を嫌い、単に、「旅」、と呼んだと云う。前者であれば神から与えられた試練と云う意味になるが、「旅」は自らが主体的に選び取った人生上の等しき経験という意味合いになり、そこでは旅の空の元での平等、という考え方が成立する。信仰を守り通したことも、人間的な弱さゆえに棄教したことも、キリスト教徒としての経験の質と云う意味では変わらない、と彼らは考えたのである。あるいはこう考えることで、一丸となって村の再建に勤しむことができる、と考えたのである。わたくしは彼らのやさしさの中に日本のキリスト教を見た。わたくしは彼らのやさしさを思うとともに、改めて日本のキリスト教と云うものの在処を考えてみた。
 「受難」を「旅」と読み替えること、これはキリスト教の教義における重要な解釈上の改変であったに違いない。そのことを日本のキリスト教徒がなしえたと云うことについて、わたくしは誇らしさを感じる。「受難」の影がないと云うことは、いわゆる「殉教者」もいなかったと云うことになる。殉教したものも、そうでなかったものも、信仰を守り通したものも、そうでなかったのものも、信仰の質としては等しくキリスト教徒であることには変わりはなかったのである。四福音書の権威確立以降のキリスト教正統史が伝えるような、殉教と云う行為を特異的に卓越化し、先鋭化してセンセーショナルに称揚し情動と呼ばれる人間の弱き部分に訴える、と云うようなファナティックな態度をとることはなかった。この問いは、一般に宗教にとって、人間の尊厳とは何であるのか、どう考えるのか、という宗教史的、歴史的な問いかけをわたくしたちに残しているように思われる。
 番組は、津和野藩に配流された棄教者の動向を伝えている。棄教したのち彼らは自分たちに与えられるようになった食物の大部を割いて、トンネルを掘って区画隔離されて屋敷内に閉じ込められている昔の仲間たちに届けようとしたと云う。また棄教者が信仰に再復帰することを「立ち上がる」と云うけれども、このことはより一層の弾圧を予想させるため、非棄教者の側から優しさと思い遣りをもって棄教者を戒め諭し慰めたと云う。心弱きものへのやさしさと思い遣り、これぞ日本のキリスト教である!
 キリスト教徒は元来、教会の内にいるか否かを喧しく言う。聖書の内側と外側を論理的且つ排他的に区別する。真の信仰の質とは何であるのかについて、日本の浦上キリシタンが残した足跡は、大文字による表立った意思の表明ではなかったけれども、信仰の質と云うものを考える場合に重要な示唆を与えると思う。
 
(附説)
 以前、大分の竹田市を訪れたときに、隠れキリシタンの御堂跡、――洞窟の跡を訪ねたことがある。それは人里離れた山中にあるどころか、町中の通りをほんのちょっと入り込んだ、崖に接したところにあって、町の喧騒と背中合わせの「秘所」の趣きであった。その時から、江戸期に於ける隠れキリシタンとは、表向きは禁制とされてはいても、見て見ぬふりをして捨て置かれていたのではないかと考えるようになった。
 この番組でも、表ざたにならないうちは長崎奉行所も二百数十年間にわたって「見て見ぬふりをしていた」ようである。あるいは映倫のように抜き打ち的に時々検挙劇を演出することで己の存在理由を満足させていたのかもしれない。むしろキリスト教徒についての弾圧が先鋭化するのは、幕府崩壊後の新政府による神権政治の時代の、一部の国学者イデオロギーに扇動された時代に於いであったようである。明治政府が表面上は開明的な施策を推し進めながら、他方では光と闇のような場面を抱えていたことは日本近代史を語る場合に不可欠の命題となるであろう。また、この点を日本のキリスト教側の陣営に引き戻して論じれば、かかる課題を信仰上の問題として創造的な意味での解釈を講じてこなかった怠慢を反省すべきであろう。