アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ホーソーン『緋文字』――アメリカを考える アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 
 ナサニエル・ホーソーンの『緋文字』、開拓史時代以前のニューイングランドのセイラムと云う港町を舞台にした姦通ものであり宗教小説である。
 小説は、ヒロインのヘスター・プリンが姦通の罪ゆえ晒し者として見せしめのため、いまは使われることも稀になった絞首台の上に登るために教会の重い扉を押して出てくるところから始まる。
 彼女もまた移民であり、古いベネルクスのどこかで夫を持つ身であり、事情により自分だけ当時新開地であった北米のニューイングランドに移り住んだが、残された夫の移動は容易ではなく、様々な事情によって渡米は果たせたものの、大事な数年間を原住民に捕囚され文明と遮断されると云う生活を送り、北米の移民社会の間では死んだと云う風に思われていた。こうした事情の中で、寡婦となったヒロインと、当時彼女の心の伝導し出会った若き牧師との間に愛が芽生え、それが精神的な愛であるだけなら良かったのだが、その間に生まれた女児を認知することに於いて、決定的にキリスト教社会からは疎外されたものとなる。また、女児の認知については両者の間に葛藤もあったことが想像され、ヒロインは女児の出生を強く望み、女児の父親が誰であるかを共同社会の中で黙秘することに於いて、閉鎖的なニューイングランドの於ける当該者である謎の牧師「X」の社会的身分と宗教的な階級社会に於ける立場も保全される、以上の経緯がこの物語が始まる 前史 である。
 
 『緋文字』は推理小説を読むようなスリリングな仕立てになっているので、いかようにも読むことができる。
 一つはヒロインのヘスター・プリンに焦点を合わせて、なにゆえにこの一見貞淑そうでもあれば内省的な女が姦通などの社会的通念に抵触する重大な罪を犯すに至ったのか、その動機を追いたいと云うことだろう。
 もう一つは、近代の推理小説にあるように、犯人探しに焦点はなく、最初から分かっている当該者「X」に対する関心、良心の呵責に堪えているかに見える男が何時白日の下に自らの罪を告白し、ヘスタープリンともども自らの良心の在りどころを示すか、という点である。
 もう一つは、実は生きていたヘスター・プリンの夫・ロジャー・チリングワースの存在である。あえて言えば、復讐の鬼と化したこの男の、陰湿な陰気な処罰の方法である。表立って元妻と牧師を告訴し、弾劾しない、あくまで事を共同体のなかでは秘密とすると云う密約をヘスターと取り交わし、内面的な脅迫感で牧師を死に至るまで追いつめる、という点にこの男の快楽がある。つまり罪と罰があるのではなく、罪と罰の固有なあり方を通して、人を内面的に支配すると云うあり方のなかにこの上ない歓びを見出すと云う近代主義的な倒錯の実例をこの男のなかに見る。
 そのためにこの男がとった独特の方法とは、あえて牧師の情緒不安定な症状を理由に、また共同社会の中で精神的な拠り所ともなっている牧師に対する同情を背景に住民の意思を担うと云う理由で、堂々と昼夜始終親身に世話をする医者になりきって、同じ家に住むと云う選択だったのである。これでは逃げようがないのである。
 
 このあとの物語の展開は、自省と自責の念に堪え切れなくなった牧師が夜間自邸を抜け出して、あの日ヘスター・プリンが晒し者にされた公開の死刑台の前に立って秘かに自らをヒロインの運命に準えて、三人でこの場に立って、罪は罪として罰は罰として堂々と世間の批判に向き合う勇気を持ちたいと云う潜在的な願望を顕わにする場面である。ヘスター・プリンもまた不思議な偶然から眠れない夜彷徨い出てこの場面を目撃する。こうして彼女は、本当は罪深かったのは、自らの罪を秘匿している牧師ではなく、自分自身にかって夫がいた事、そしてあろうことかその夫は様々の艱難に堪え生き延びてこの地に名前を偽ってたどり着き、復讐の鬼と化して刻々と蜘蛛の巣にかかった獲物をしばし嬲るように、敵の正体も見分けることができないまま、無防備な状態にさらされて不健康な死への道を刻々と歩かされている牧師に対する自分自身の偽ったあり方だと悟るのである。
 
 こうしてヘスター・プリンは立ち上がり、ロジャー・チャリングワースを呼び出して、真実を告げるつもりだと云う。事の新たな展開を告知されたチャリングワースの次の手を封じるために次に彼女が執った手は、もちろん真相を牧師に告げることことである。
 それを告げられて牧師の反応は二つに揺れる。一つは罪を告白し、共同体の内にでも外にでも出て言って、まっさらの状態で人生を生き直すことである。ヘスター・プリンの受けた判決は晒し者の台に数時間立つことと胸に緋文字のマークを付けた衣装を常時着用すると云う以外のことには言及していないからである。早く言えばどこに行こうと今は自由な身なのである。もちろん、牧師は当然のことながら長年受けてきた尊敬の念と共に共同社会に於ける高い身分も同時に失うことになる。読者も一時はこの方向を期待する。実際に物語の終盤では渡航用の帆船の予約を済ませていることを読者は知るのであるが。
 しかし牧師が選んだのは、公開の席上で、セレモニーが一段と盛り上がった段階で、なみいる公衆の前で自分自身の不徳と過去の姦通の罪を偽り続けてきた生き方を弾劾する、というものだった。結局、告悔師として長年生きてきたこの男の中で、罪を懺悔すると云う形式は骨の髄まで深く根を降ろしており、これ以外に生き方と云うものが考えられないのであった。こうして社会的に破滅すると云う方向こそ、復讐の鬼と化したロジャー・チャリングワースが望んでいたことだったのである。かくして彼の陰湿な復讐の目論見は達成されたことになる。
 
 牧師は、長年月にわたる自らの罪を秘匿し欺き続けると云うことからくる精神的並びに身体的な衰えは大衆の全体を向こうに回して自らの罪を告白すると云う心理的な負荷に堪えずして、死刑台の上で劇的に息を引き取る。ヘスター・プリンもまた亡骸を支えつつ公然と民衆の前に姿を現す。緋色の文字を描いた黒地に赤の「A」のマークを公然と掲げながら、赤子ともども三人で処刑台に立つと云うことこそ、次善の彼女自身が望んでいた社会的制裁を感受する途ではあったのだが。
 
 今日、百五十年ほども前の昔のアメリカ文学を読んで思うことは、古すぎて現代のアメリカ文明を考えるについては一面、あまりにも現代アメリカ人とは無関係になり過ぎた時の隔たりと云うものを感じるし、反対に宗教的なドラマとして読む場合は、時を超えた普遍の人間ドラマを感じ取ることができると云うことだろう。
 『緋文字』は新しいのである。
 ここでは一読しての感想として次の点を言っておきたい。第一点は、この小説は、宗教がいかにして罪概念を手掛かりとして人々を人として縛るかと云う、支配の宗教学を手にとるように、ロジャー・チャリングワースの陰湿な挙動を通して描いたことであろう。罪概念と云う負のシンボルを人の内面に植え付けることで、日々人をして意識させ懺悔と云う形式でそれぞ増幅再生産させる、宗教的良心の自動化工場とでも云えるシステムが長年月にわたり、容易に人を操作しうるような社会の強固なヒエラルキーが形成され、そこにそれを享受するものと好むと好まざるとに関わらす支配されるものと、それ以下の犯罪者もどきの存在として疎外されるものの三者を生み出してきた、キリスト教の数千年にわたる経緯が象徴的に語られているのである。
 『緋文字』は、16,7世紀のニューイングランドの自然の風景を描写しながら、旧大陸の宗教的観念論的な体系の桎梏から解放された稀有のヘスター・プリンと云う女性の目覚めを通じて、自然性の回復を描いた小説とも云える。実にヘスター・プリントと牧師の間に生まれた罪の児であるとされたパールはその名のごとく宝石のように母親に傅かれ、やがて国外に新天地を求めて幸せな生涯を送ったことを暗示しながらこの小説は終わっている。この終わり方を見ても、『緋文字』に描かれた世界は近現代のアメリカ社会においては孤立した出来事であったことが何となく理解できるだろう。
 このあとヘスター・プリンの後日談はどのようになったのだろうか。彼女は娘とは別れて、何時とはなしに再びセイレムの地に舞い戻り、この罪の地で逃れることなく、虐げられた人々、貧しい極貧いある人々を相手に生涯を終えたと云う。このあとのアメリカは周知のように、まるで無関係なような人々が登場する、幌馬車と横断鉄道によって西へ西へと進む、フロンティア・スピリットの時代に突入するのである。つまりアメリカ文明は、日に日に男性的なモラルと倫理に覆われた社会へと変貌を遂げていくのである。