アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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鷗外『雁』追慕

鷗外『雁』追慕
NEW!2020-02-08 22:17:45
テーマ:文学と思想

 今までにも何度か読んでいるのに、どこを読んでいたのだろうと不思議な気分になる。森鷗外の『雁』のことである。美しい悲恋話とばかり思っていたのに、それに少しばかりインテリのイロニーが薬味のように利かされて、鷗外特有の一筋縄ではいかない、半分は玄人が読んでも味読に堪える名作と云えば名作か、と云う程度の読みで満足していたのである。その責任の一半は鷗外にある。彼の物語作者としての手腕が上手すぎて、すらりと流して読める、名品の如き肌触りがこの書の持つ真価との対決を隠避し続けてきていたのである。

 ヒロインのお玉とは誰なのか。鷗外の履歴のなかに、このような清冽な女性は見当たらない。森まゆみが「無縁坂の女」のなかで卓見を述べているように、鷗外の隠し妻・せきが一部該当するのかもしれないが、封建的美徳の持ち主として生涯を貫いた彼女にはお玉が持つ、武芸の達人のような果断さ、乾坤一擲を秘めた居合抜きのような清冽さはない。
 いったい、明治期にこのような女性が存在したのか。否、それ以降のどの時代においても、日本の近代文学はかってお玉のようなタイプの女性を描き得たろうか。例えば何かと比較される漱石がよく描き得ただろうか。こういう女性のタイプの起源は何処にあるのか。頭を抱え込んでしまった。

 むしろ彼女は樋口一葉に似ていたのかもしれない。一葉描くところの『たけくらべ』の美登利に似ているような気がする。美登利が成長した姿が一葉その人であったとすれば、鷗外が意識したかどうかは別として、一葉に似ているような気がする。もtぅと云えば、文芸作品のなかに描き籠められてある一葉よりも、一葉日記のなかに覗える樋口夏子に似ているような気がしてならない。

 樋口一葉は、封建社会の価値観にどっぷりと浸かりながら、その呪縛にからめとられながらもなお抗うことなく精神の自律を自ずからなる自然性のなかに体現し、その利点も限界も知りつつそれを敢えて尊重した素振りを演出しながら、結果的に矢折れ尽きるように肺結核のなかで苦しみながら死んだ。彼女の死を早めたのは、環境の要因もあるけれども、彼女自身の性格の果敢さ、武家の如き道徳観の清冽さ、己への労りなき厳格な自己サディスティックなまでの倫理観にあっただろう。
 しかしその氷のようにと閉ざされた倫理観にもときおり、気まぐれのように春の日差しが射すようなことがあって、その綻びが花のように散り敷いて樋口文学に固有の華やぎを生む。
 鷗外の『雁』は、一葉の『たけくらべ』を読んだ鷗外が森鷗外なりの応答のひとつの形式ではなかったか。天才同士の対峙、応答の姿がここにあるのではないのか。

 それにしても鷗外の生涯のなかに『雁』に匹敵するような実体験がなかったにしても、天才同士の純文学的ともいえる文学史的経験は人生実体験以上のものを生んだのである。

 しかしそれでもなお得心が行かぬ点がある。小説『雁』創造の舞台裏には、それと等価とするものが存在しなかった、と云うことだけで良いのだろうか。これだけで済むのだろうか。お玉の人物造形の起源は何処にあるのか。それは我が国近代日本の起源を求めるほどに、薄明の夕闇のなかに昏い。
 
 あるいは発想を代えて、その面影の一部はドイツ留学経験のなかのエリスに求められるのではなかろうか。鷗外が生涯を通じて黙して語らぬ異国の乙女の明治世紀末の追憶の彼方に!

 小説を読んでその読後感が、こんなにもじわじわと効いてくる。初めての経験である。