アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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シェイクスピア 「トロイラスとクレシダ」とヘクトールの死 アリアドネ・アーカイブスより

シェイクスピア 「トロイラスとクレシダ」とヘクトールの死
2012-03-03 08:28:52
テーマ:文学と思想

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  物語はトロイ戦争の七年目、アキレウスの参戦拒否からヘクトールの死と云う、『イーリアス』のハイライトの場面を舞台にしている。物語は対位法の如くホーマーのもの悲劇ともう一つの表題になった「トロイアスとクレシダ」の物語を不器用に同時進行させて語る。テーマは前者に於いて大義と名目のない闘いにどう個人個人は向き合うか、であり、愛の永遠性とこの世のしがらみはどのような関係にあるのか、と云う問いである。

 この物語を歴史物語として解釈すれば、それはヘクトールからトロイアスへの物語である。物語の冒頭、まだ未成年ゆえの不決断が抜けないトロイアスが紹介され、やがてヘクトールの死を境に、押しも押されぬトロイ方の武将として成長していく姿が描かれる。この成長の物語は、同時にクレシダとの愛を失う話でもある。愛は、ギリシア方とトロイ方の政治的工作の手段として利用され、悲劇の相として現れるだけでなく、引き裂かれた二人の愛の後日談として、徹底的に愛の幻想性を打ち砕いて虚無感の内に終わる、そう云う意味で、歴史と愛との二重の悲劇なのである。

 ヘクトールの死は、戦争における英雄時代の終わりでもあった。知恵と武力に優れた英雄でありながら、その唯一の欠点が情け深さにあった、そんな知情ともに備えた人間の、戦争そのものに対する不徹底性がもたらした悲劇でもあった。彼は、激情に駆られたアキレウスの刃に、まるで騙し打ちのような卑劣なやり方で屠られるのだが、このことはトロイ戦争そのものが英雄らしさよりも、どのようにして敵方に勝つことができるのかと云う、目的志向性の時代に変化しつつあることを語っている。その代表がアキレウスを陰で操る、調略のひとユリシーズである。

 ヘクトールの魅力は、どこか古き時代に殉ずる神話時代の終焉の興がある。

 ヘクトールの矛盾は、大義なき戦いを王の前で論ずる御前会議でも露呈する。彼は七年目に及ぶトロイ戦争の終結を美女へレナとの交換条件として提出してきたアテナイ側の提案の現実性と妥当性と、また自然に従うべき論理と道理を諄々と説きながら、結局はトロイアスの、自分たちが今まで闘ってきた名誉論に押し切られてしまうのだ。戦争の目的がそれに支払う費用と釣り合わぬとき、真の勇気とは迷うことなく戦争の放棄をこそ決断することであるべきなのに、平和時とは事変わり明日をも
しれぬ不確定性が卓越した戦時の会議に於いては、より過激な意見の方に押し込まれてしまう、という悲劇が語られている。自分の意見が御前会議の大勢を覆す望みに至らないと判断した時、ヘクトールの取りえる行為は、自死のような形で戦場英雄的な形で屍を晒すことでしかなかった。そのため両軍の衆目の前で行うべき一対一の対決を愛の名の元に遂行しようとしたのである。このへんはなにやら連合艦隊艦長山本五十六平家物語那須与一を思わせる脚色である。

 しかし論舌ではヘクトールの譲歩を引き出したトロイアスではあるが、ヘクトールの詩の後は全軍の重みが自らの双肩にかかってこざるをえないことを自覚する。その政治的な自覚は彼にとって、名誉や友情や親子や近親の愛、全ての大義の時代の終わりでもあった。かれがトロイ戦争をめぐる重大な決断の果てに受けとった最大の贈り物とは、皮肉なことに永遠の愛情を誓い合った、あるいは誓い合ったと信じた自分自身の純情さに対するこれ以上にない侮蔑であった。自らが恋人に与えた肩袖が他の浮気の手段として用いられている現場をその場で見せつけられて!

 虚無的なところは確かに『ハムレット』に、そして先日読んだ『アテネのタイモン』に似ている。しかし至高の愛の無残さを描いたと云う点では、あまり言及されることはないが『ヴェローナに二紳士』に、実に似ているのだ。自分が恋人に送った指輪が他の浮気の場面で見せつけられると云う、この上ない恥辱に耐えなければならなかったジューリアに。彼女に偉大さは、悲劇とすら言えない茶番を受け入れ、それは彼女が卑屈な性格であるからではなく、この世に生じた諸現象よりも彼女の生涯が持ったキャパシティの大きさゆえに、男たちの愚かさや卑劣さもまた寛大な気持ちで許すと云う、泣き笑いの寛大さにあったことをいま痛切に思いだす。

 この物語を読み終えて感じる暗澹さは、果たしてトロイアスはジューリアのように悲劇を喜劇に帰る度量の大きさと寛容の精神をもって成長しえたか、と云う疑問である。このあと続く、より過酷なトロイアの落城と惨殺と一家離散の結末を知っている我々としては、英雄ヘクトールにはあり得た滅びの美学はおろか理念に準じて死ぬ威厳と優雅ささへ奪われた、死が無名性へと化す、一層懐疑的でもあれば皮肉な結末を予想しないわけにはいかないのである。

 『トロイアスとクレシダ』は問題作であり、その顕著な現代性が指摘される。たしかに読み終えて感じるのは、トロイアスがとても歴史上や伝説上の人物とは思えない、つい見知った親友の顔でも思い出させるような親近感なのである。

 これもまたウィリアム・シェイクスピアの傑作の一つと考えねばならないのだろう。