アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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辻邦生 『北の岬』――ある西洋の誘惑 ある戦後の断層 アリアドネ・アーカイブスより

辻邦生 『北の岬』――ある西洋の誘惑 ある戦後の断層
2012-03-24 10:01:19
テーマ:文学と思想

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 二年に及ぶフランスでの留学生活を終えた「私」は、日本に向かう船旅でマリー・テレーズと云う名の修道女と出会う。帰路コロンボシンガポールでの点々と立ち寄る寄港地で彼女によって紹介される布教修道女たちの生き方と過酷な現実の数々、・・・信仰を礎としたゆえの、この”何ゆえに”こそと問われてこそ相応しいこの問いが持つ響きの不吉さが、「私」ひいては作者その人・辻邦生にとっての西洋とは何ものであるかの自問自答にも似た根源的な問いなのである。

 今回は、折角、辻邦生について何事かを書くわけであるから、従来の留学生・私と修道女テレーズの純愛ものと云う視点とは違った観点から読んでみようと思う。これらの一連の短編小説が上梓されたのは1974年頃のことなのだからあれから40年近くも経っているわけである。つまり我々は辻邦夫よりも半世紀ほども後に生きるものとしての地の利を得ているわけであるから、その地の利を生かして辻に於ける西欧体験と云うものが全体として何であったかを語ることは、単に後の世に生きる者としての辻に対する優位を誇ることではなく、むしろ60年代に生きたものへの内面に内側から迫ることによって彼らの課題を引き受け肩代わりすることによって、遠ざかりつつある日本の物語作者への敬意と云うものを語ることであり、死者へのはなむけの辞ともなりえるものと信ずる。

 このような物語を語る場合は戦後の時代思潮とも呼べるものについて簡単に触れておくことも必要だろう。戦後日本の特徴は、天皇制国家と云う価値ヒエラルキー的には疑似一元制社会・国家の崩壊に伴うアナーキーな一見無秩序とも云える混沌の時代があった。平和と民主主義が声高に唱えられ、内面的な知識人のレベルでは、例えば本作「北の岬」や一連の遠藤周作の小説群に描かれたような西洋体験が綴られ反芻されていたと考えて良い。今日からみて重要だと思われるのは、あらゆる価値の崩壊を体験し、ありうべきことか超越的価値や精神性の卓越性に対する不信感を超えて、戦争犯罪に伴う罪悪観すら感じていた感じていた当時の知識人にとって、一介の修道女とは云え信仰に満たされた揺るぎない生き方は、それだけで十分に驚異に価したと思われる。しかも西洋が単なる価値の精神的卓越性として現れただけでなく、一人の美形の修道女の神秘的な面影とともに顕れたとするならばどうなのだろう。まさに抵抗感と云うものすら溶解してしまうほどの無根拠性の底に陥とし込まれてしまうのではなかろうか。もはやこの事態を正しく表現しようとすれば――西洋の誘惑、と云う表現の方が相応しい。つまりあらゆる面で日本精神に対して圧倒的な優位に立った西洋文明が、まるで駄目押しのように美女の形を取って内側から溶解させ骨抜きにしてしまうと云う現象である。

 小説の詳細は、日本へと向かう船旅の徒然から物語末尾の宗谷岬における神の愛への選択的顕現に至るまで、マリー・テレーズの、というか西洋文明とキリスト教の圧倒的優位に於いてその帰結が語られる。届かぬ愛は西洋文明への憧憬として、最後の場面で修道女への愛の告白へと高まるのだが、この場合の修道女とは人称的存在ではない、西洋文明そのものの象徴なのである。語り手「私」の愛が小説「北の岬」の波濤に阻まれたとき、つまり人間への愛よりも神への愛が優先的に語られたとき、これは純愛物語であるとともに純愛物語であることを超えて一種異様な屈服の物語へと変貌する。西洋文明の怖ろしさは、例えば若き森有正遠藤周作において甘受されたように、手の届かない絶対的断絶として現れる。

 辻や森や遠藤より半世紀後に生きる我々としては、時差を利用した優位性ゆえに、例えばこの問題を、何ゆえ、テレーズや彼女が帰属するキリスト教団の行為が敬意に価するものとはいえ、所詮は不毛であるかを問うことが出来る。かかるキリスト教徒としての信仰の在り方が何ゆえ不毛であるのかと問いなおすことができる。歴史的成果を語るととも時代の制約ゆえに克服できなかった課題を彼らの代わりに引き受けて批判的に語ると云うあり方もまた、彼らの過去の営為に対する敬意の現わし方の一つなのである。辻や森や遠藤に見えなかったものが、半世紀という時代の視野が齎すパースぺクティーブから来る優位性において、今やはっきりと明瞭に我々の眼に映じる。これは個人の才能や感受性の問題ではなく、後代に生きる者の特権なのである。

 如何なる生き方であろうとも、例えば辻が小説「廻廊にて」において語っているように、その生きざまに関する限り、実存としてのその一回性においてある限りに於いて敬意を払うに値する。しかし、元々人が生きる価値とは何も一個の人間の、偶然性に満ちた一生に限定して良いものだろうか。物語の帳尻を何が何でも個人のレベルで決着を付けざるを得ないとまで思いつめ、収支決算を徹底的に個人のレベルで考える以外に道はないものだろうか。今日から見ると、「私」やマリー・テレーズの生き方は人間的価値を支える背景となるもの、ものごとを考える上で思考の恣意性を超えた枠組みのようなもの、流行りの言葉で云えばパラダイムズを如何に考えるか、と云う点にあるように思われる。