アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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辻邦生 『シャルトル幻想』 アリアドネ・アーカイブスより

辻邦生 『シャルトル幻想』
2012-03-30 19:25:11
テーマ:文学と思想

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 このところ辻邦生と云う、主として70年代に話題になった作家の本を読んでいる。勿論、師弟と云うより友人の関係に近かった森有正について考えを纏めるためにどうしてもこの人の存在が出てくるのも事実だが、読みなおし始めたのは実はこの人の方が早かった。『安土往還記』や『天草の雅歌』と云う物語系のものから始め、徐々に『廻廊にて』『夏の砦』『北の岬』と云う世に進んだ。『嵯峨野明月記』『背教者ユリアヌス』は四十年ほども大昔、当時付き合っていた文学仲間の友人が好きだったので刊行されて間もないころ読んでおり、その後断続的に『西行』それから『春の戴冠』をほぼ十年おきに飛び飛びと読んで、そして今回『森有正――感覚のめさすもの』も含めて、現代作家の中では纏まって読んだ部類に入る。それと云うのも、若いころ放り出していた”西欧的なものとの対峙”と云うものに、あと何年生きるか分からない命の過程の中で、もう一度考えてみたいと思ったからである。
 そんな機縁が、実は日常の中ではなく、四年前の北イタリアの都市廻りの最中に起きた。ロンバルディアの中小都市をなるべく数多く廻ると云う計画で、長いとも云えない10日間の間に何が起きたと云うのだろうか。大げさな!と人は言うかもしれない。しかし北イタリア諸都市の広場の噴水の水滴の煌めきや、彫り込まれたロマネスク教会の穿たれた深い窓部の窪みに射す光の陰や、交叉ヴォ―ルトの複雑な局面ごとに暗く光るボルティコの柱列の連なる陰影を旅人として過ぎる時、長らく埋もれていた感性の疼きが、底から突き上げるような思いとともにその超越的経験は生じた。それは抑えることない歓喜の響きとしてあった。内面と外面を分断して生きる必要はなく、生きてある限りに於いてのこの世に於いて芸術的感興を求めても構わないのである、と。それは経験の質を求める旅であった。まさに、辻のロマネスクの世界で起きるようなことが私自身の内にも生じかけていたのである。

 いささか大仰な書き出しとなったが、辻邦生の『シャルトル幻想』には、そうした若き日の想いが半ば苦みを含んだ悔悟の思いとともに彷彿させるのだ。1990年刊行の辻の短編集は、何れも1960年代に発表されたものの集成である。一読して感じるのは、若書きと云うより、辻の物語作者としての巧みさである。巻末の日本を舞台にした『影』を除けば、いずれもそれなりに読ませる作品になっている。『西欧の光の下』などの形而上学的な随想を当時どれだけの人がわがものとし得ただろうか。そこにはフランス文化の伝統と規範にまで高められた形式性と戦後の日本の無秩序が対比されているのである。単なる欧化主義的な傾倒の類ではないのである。

 それと名指されて書かれているわけではないアルチュール・ランボーを主人公とした『献身』が最も勝れているように思われる。自暴自棄ともとれる晩年の放浪を、象徴派の詩人たちとの関わりからではなく、革命に死んでいった七千人の労働者たちの実存と対比させて描いたところにこの小説の特色がある。革命の波が退潮した朝、これだけの変化があったのに現実が何一つ変わらないと云うもどかしいほどの非力観を描いている。

 辻の民衆への共感は、例えて云えばもう少し後の世代の高橋和己などに共通する、最後の旧制の学生気質の最後の名残り、と云う意味でも興味深い。エリートにはエリートなりの取りえと云うものがあって、それが辻の場合難解な形而上学的な思想を描く場合も、良く整理された理性の光で隈なく照らし得ると云う自負にも繋がり、これが彼の長所にも短所にもなっている。
 たとえば『晩年』などは、そのトーマス・マン的なテーマの咀嚼の程度と云い、光学的分解能の確かさと云い、辻邦生の難解な思惟をこれ以上理性の光の元に照らしだし、モデル化したものはないと云えるほどなのだ。ここには『トニオ・グレーゲル』以来の市民性と芸術家の問題が辻邦生の眼で再考される。実務一点張りの市民性の典型のような有能な弁護士の最晩年に起きた不慮の変調を通じて、定型性を超えた生の現実との接触が描かれる。トにオ・グレーゲルは寂しい是認の微笑みとともに市民生活を遠くから顧みるだけであったが、本篇の主人公エリク・ファン・スターデンは、その二つの世界を架橋しようとして自滅していく。マンの小説では危うく保った均衡が辻の小説では一歩踏み込んで悲劇の方へと転落していくと云う形式が、後の『廻廊にて』や『夏の砦』で繰り返されることになる”現実性の恢復”と云うテーマの原型が、ほぼそのままの形で見出される。”現実性の回復”と云う口当たりの良い言葉は、他方では裸形の”ものたちの出現”と云う、もう一つの衝撃的な事象と対応していた。

 しかしここに云う”もの”とは何だろうか。ジャン・ポール・サルトルの『嘔吐』が描いた吐き気を齎す裸形の現実の発見に最も近いような気がする。フッサール現象学のように自然科学の光で観られた現実、というのでは余り整理されすぎて身も蓋もない気がする。森有正が一時広めた経験思想を根底に於いて支える”感覚”の発見に一番近い気もするのだが、森自身が経験と感覚の発見と云うことで何を言いたかったのかは、両義的で定義も定めがたい。フランス流の経験とは、言語と現実が一対一の厳密な関係にあり、その整合された秩序がフランスの文明と云うものであり、規範としてのフランス語であると森は感じたのではないかと私は密かに想像するのであるが、これは本人も云っていないことなのでここだけのことにしておく。しかし規範的なまでに完成した形式性こそ『西欧の光の下』で発見した現実であり、それを言語とともに一方で支える”もの”や感覚の確実性の崩壊こそ、『晩年』ファン・スターデンの市民としてのアイデンティティを崩壊させたものに他ならないのである。

 しかし、辻の一連の形而上学的な思惟を描いた悲劇的小説群において主人公たちを見舞う現実性喪失がある種の迫力を欠くものであるのはなぜだろうか。それはフッサール的所与の現実とその崩壊(現象学的還元)と、その結果生まれる裸形の抽象的な”もの”たちの迫りくる世界を経て、愛と哀しみを含んだ現実性の回復と云う、辻の芸術家小説が余りに明晰過ぎる理性の光によって整理過ぎたきらいがあるためではなかろうか。
 明晰過ぎる辻の欠点は、『影』などに典型的な形で現れている。ここでは日常性の崩壊としての影が、共に生きるべき人間性への裏切りや、戦中の過酷な現実と同列に、理由づけされて描かれている。日常性の崩壊と云い裸形の現実の迫りくる感触と云い、それは現存在分析の心理学者たちが明らかにしたように、反省や負い目と云った人間的喜怒哀楽の感情が途切れる処から始まるものでああるはずだが、安易な企業内のトラウマに係る物語としてしまっている。企業内の人間関係を描いても、辻の社会経験が深いものではなかったことは、人物造形や肉付の薄さをみれば明らかである。この類の小説を辻が二度と書かなかったことはこの間の事情を明らかにしているのだろう。

 ところで表題となっている『シャルトル幻想』は7ページほどの紀行文である。雨に洗われた曇天の空に暗く蹲るようなシャルトル、燦然たる薔薇窓から降り来る光のしずく、虹のような光の乱舞は外に出れば一条の虹と化す!何ゆえ日本人はかく云う空間を遂に持つことが出来なかったのだろうか、と若き辻は書く。

 ともあれ、トーマス・マン以降の市民性と芸術家のテーマや、現代における芸術誕生の意義を求める形而上学的思惟の展開に於いて、その明晰判明なる思想は80年代以降の素人じみた文学路線とは一線を画しているのである。私たちは郷愁とともに『背教者ユリアヌス』や『春の戴冠』の抒情を、生きる励ましの思想として、今は亡き辻邦生の思い出とともに思いだし思いかえすのである。