アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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水の洗礼 『北の愛人』 アリアドネ・アーカイブスより

水の洗礼 『北の愛人』
2013-01-22 00:05:36
テーマ:文学と思想

・ 『愛人』(1984年)・『北の愛人』(1991年)と『太平洋の防波堤』(1950年)と読み進めて感じる素朴な疑問は、ショロンの男は果たしていたのか、という疑問である。時を隔てた両作に現れたショロンの男の印象は正反対と云うほどにも異なっているし、『愛人』のショロンの男との別れを描く場面では、次兄の死が重ねて語られる。つまりこの二人の男性像はデュラスの記憶の中ではコレスポンダンス、響き合う共時性を持っていた、と云う意味である。『愛人』はフィクションであるから、二人の男は混淆され、習合されて描かれた可能性が高い。もッと言えば、ショロンの男とは、半分以上はあの伝説の”下の兄”のことではないのか。なかば自伝を装いながら、いっけん離れたところに隠喩的表現を見出すと云うのは自己韜晦癖のあるデュラスの常套手段なのだから。そのままの従来型の小説的な叙述、自伝的な記述の在り方が真実を伝えず、フィクションでしか表現できないものの本質の在り方に自覚的であったデュラスのことであれば。

 ヒロインの少女だけでなく、『愛人』・『北の愛人』に描かれた男たちはよく泣く。それは実際にそうであったと云うよりも、記憶の中で水の儀式、水の洗礼が行われていたからではないのか。時の浄化作用の中で水の祭壇に額づく使徒たちになっていたのではなかったか。デュラスのコーチシナものには水に関するイメージが溢れている。メコンの水面(みおも)、川面(かおも)に映る艀と桟橋、水面を滑る渡し船と頼りなく靡く汽船の黒い煙、そして最後の旅立ち間際の旅客船を包む喧騒と静寂!もちろん、マイナスのイメージとしての洪水、太平洋の防波堤から望む記憶の彼方の水平線もあるだろう。そして何よりも、水の叙述に関するもの、少女と男たちが流す涙、涙の、水の洗礼式。

 映画『愛人』では、鎧戸だけで戸外の密集地と隔てられた密会の場所の、半開放性、半閉鎖性の曖昧さが上手く描かれていた。半ば鎧戸を通して入って来る筋目状の光かりの中で、半ば暗いひそめきの閉ざされた空間の中で、外界が侵入してくる。二人の秘められた愛撫の風景の中を光が時を刻み町の物音が過ぎていく。内部と外部の相互浸透、すのこを嵌め込んだ鎧戸で囲われた密会の場所は、まるで森の中のようである、筒抜けであるような閉ざされてあるような、覗き見られることとしての存在の曖昧さ。すのこと鎧戸で囲まれた森の中にも、あの暗殺者が、愛の狩人がいたのかもしれない。

 すのこと鎧戸に囲まれた密室空間は、防波堤を望む低湿地の森ではなかったのだろうか。ショロンの男として語られたことは暗殺者の家とそれを囲む森の秘められた出来事のことではなかったのか。コーチシナの森とショロンの喧騒の森に共通する見るものと見られるものの関係、狩るものと犠牲者の関係、演ずるものと目撃するものとの「殉教と剽窃」(M・D)の関係。
 マルグリット・デュラスは『アガタ』(1981年)において、いま一度別の異なった表現手段で挑戦するだろう。

 ローマのディオクレチアヌスの時代に前後する時代に、両乳房を切り落とされ火あぶりの刑に処された聖女アガタ、彼女を思慕して同様の運命を辿ることになる聖女ルチア(サンタルチア)、彼女は愛人の密告を受けて殉教するのだそうですが、生の豊饒と密告と裏切り、何か関係があるのでしょうか。