アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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マルグリットの文体 『愛人』の語り アリアドネ・アーカイブスより

マルグリットの文体 『愛人』の語り
2013-01-21 20:43:09
テーマ:文学と思想

・ 小説的叙述と、語り、とはどう違うのだろうか。
 わたしは、こころみに彼女の『愛人』の中から、好きな場面を選んでみる。

”言いそえれば、わたしは十五歳半だ。 
 メコン河を一隻の渡し船がとおってゆく。
 その映像は、河を横断してゆくあいだじゅう、持続する。”(p8)

“あの日の娘の服装で、異様さ、途方もなさをなしているのは靴ではない。あの日のありようはというと、娘は鍔の平らな男ものの帽子、幅ひろの黒のリボンのついた紫檀色のソフトをかぶっている。”(p19)

 『愛人』では、主格が自在に変化する。内面的な、モノローグのような語りが、音楽で云う、転調するように、色調が変わり、いつのまにか一人称が三人称へと変化し、ついには風景となる。彼女は、それを「その映像は・・・」と語る。映画や写真技術に影響を受けたと云うよりも、途方もない不在が現れて来るときに、この映像のような語りが出現するようだ。

 日本語でも感じとれる文体的抒情の美しさ、原語ではどうなのだろうか。シブラルを生かした、フランス語の震えるようなモノローグの美しさを想像する・・・。

 映像との親和性は、彼女の場合映画好みと云うよりも、時にたいする自在な感じ方にある。過去が、決定的に隔絶し失われたとき、この”時の文法”が現れる。語る術もなく非力で、自らが忘却の彼方に押し流されてゆくとき、自らの無力を怨めしく思うとき、この文体、この風景のモノクロ画面が、色褪せて、転調して現れる。
 自叙伝や通常の三人称客観小説のように、作者によって虚構内時間が統制されているとき、語りの変換は不要であろう。物語を繋ぐ場面と場面、登場人物の人格と性格が、切断され細切れの不連続なフィルムの束であるからこそ、自在な人称の転換は現れるのだ。なぜなら通常の意味での人がマルグリットの文学では不在なのだから。
 それを人はなにゆえにか、フィルムの連続高速写真を見て、時間は流れている、昨日のわたしの今日のわたし、今日のわたしと明日のわたしは同一だ、と思いこむのである。
 人格への統覚の信仰がないならば、近代小説は成立しない。

 マルグリットの文体が、人称観の差異をいとも簡単に転調するとき、これは主観的な内実なのか客観的な映像なのか、とわたしは悩む。それは人称を越えているように、時間と空間もまた越えている。
 人称を越えた無人称的主体が非情に語る。この時、語る主体とは誰なのだろうか。無人称性に於いて語る存在とは、誰なのか?作者を越えた語りの臨在こそ、近代文学のセオリーとは異なるものなのだ。

 そう、人称を超えた語り、それが「語ること」である。主観も客観も越えた時間そのものが語るような、語り。ちょうどシェイクスピアの史劇に於いて、登場人物の一人が流暢な長弁舌で悲劇に至る経緯を観客のために語るように。この語りは、観客への親切のためばかりではない。
 このとき語るのは、固有の人物の述懐ではない。特定の人物に仮託された、代弁者としての超人称的な語りなのである。文学の事始めが、美神ムーサイへの呼びかけであったように。