アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ジェイムズの『モーヴ夫人・他三篇』アリアドネ・アーカイブスより

ジェイムズの『モーヴ夫人・他三篇』
2013-07-04 20:51:11
テーマ:文学と思想

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 本編に収録されている作品は、『モーヴ夫人』のほか、以下の三篇である。
・『五十男の日記』1879年
・『嘘つき』1888年
・『モード・イーヴァリン』1900年

 『五十男の日記』は、若いころ手酷い失恋の痛手を受けた初老の男が、お節介にも、若い二人の男女に要らぬお節介をする話である。これだけなら何でもないところだが、若い方のカップルの一方の女性は、かつて初老の男が失恋の相手と親子関係にある、と云う親近性にある。ここから初老の男は、娘にもその邪悪な性質――と、初老の男には思えるもの、と類似の現象を若い二人の関係に見出して、居ても立ってもいられなくなって、仲介の労を取ってしまうと云うお話しである。
 確かに、完全燃焼しなかった愛の不全性と云う意味では、作者ジェイムズが独身を通した理由の一つを暗示するものではあろう。


 『嘘つき』もまた、若いころ失恋の痛手から終生独身を通した男が、今となっては一言でもいいから昔の恋人から現在の夫婦生活に失望していると云う、単なる述懐でもいいから引き出したいと願う、妄想じみたお話しである。
 その為に彼は今や、国内でも有数の肖像画家である知名度を利用して夫婦と愛娘の肖像画を描き――夫人のものは若き日の恋愛時代に、しかもこの物語の始まるまでに経済的な理由から売り払われている――、とうとう最後には、絵画的描出法と云う手段を使って、夫の肖像画の中に邪悪なものを描きこめたたいと願うのである、・・・云々。
 巧みな肖像画家としての力量は、その邪悪な試みを意図した以上の成功を納めるのだが、画家の不在中にアトリエを訪問した夫妻によって――正確には先に出たf夫人の後に残った夫の手で、ナイフで切り刻まれてしまう。それを、たまたま外出先から帰宅した画家に覗き見されてしまう。画家が夫妻の非を咎めえないのは、自らの心にやましい点があるためである。
 このお話しもどこか荒唐無稽なほどの滑稽身を備えているが、要は語り手の観点、物語の全体を語る画家の語りが過去の経験によって歪められているかもしれないと思わせる点である。この点は『五十男の日記』の語りが、過去の経験によって歪みがちに物語の進行を判断する偏向的姿勢にも共通するものがある。

 最後の『モード・イーヴリン』はオカルトものの類似である。ある青年が溺愛していた一人娘を無くした夫婦と知り合いになるうちに、あたかもその娘が今でも生きているかのように、婚約時代、夫婦生活の時代、妻に先立たれた男寡の時代の夫々の時代を演じる、と云うものである。莫迦らしい話であるけれども、狂気じみた想像力には荘厳とも云える性質が備わっていることを、ヘンリー・ジェイムズの文学は見逃しはしない。

 滑稽さの中に、狂気じみた想像力の発露を見るのはセルバンティス以来の欧米文学の伝統であって、後年、ジェイムズが後期三大作品などで描き出す、奔放な想像力が持つ力が平板な日常的なリアリズムを遥かに凌駕する事態は、既に準備されたいたかのようである。