アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『秋日和』と『秋刀魚の味』アリアドネ・アーカイブスより

秋日和』と『秋刀魚の味
2013-08-21 17:32:21
テーマ:映画と演劇

 


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・ 『秋日和』(1960年)と『晩春』(1949年)との違いと云えば、娘役で通してきた原節子が母親を演じ、嫁ぐ娘の方を司葉子が演じたくらいの事であろうか。亡き夫の七回忌に美人の母娘が話題になる。そろそろ娘の秋子の方の縁談をまとめなければ、と旧友たちの三人は心配するのだが、母子一体で寄り添うようにして生活している二人を引き離すためには、まずは美貌の母親の方から再婚話を持ちかけたらよかろうと、半ば酒飲みのつまみ話のような無責任さで、半ば旧友らしい労わりの感情を持って話は進行する。『晩春』との違いは、父親と母親と云う性差の違いのほかに、母親の方の再婚話は極秘で進められて、最後になるまで母親本人は知らないことである。
 娘の婚約話は他の小津作品のようには困難はなくて、父の同僚の会社を訪ねた折に娘に紹介された好青年と婚約する手はずになる。この間、仕組まれた母親の再婚話を娘が誤解したり母親もその事実に初めて気づいたり、また娘の親友の果敢な取りなし劇などがあって、目出度く結婚の日を迎えることになる。『晩春』との違いは、結婚する相手を佐田啓二が演じてほぼ理想に近い相手であることを印象付けることぐらいであろうか。このあと母親は家に帰り、リンゴの皮もむかないし、落胆もしない。
 ご覧のように、『秋日和』は『晩春』の問題性を高度成長期に向かうにほの平和な日常の中に溶解させたような軽めの作品なのだが、何が素晴らしいと云って、会社の同僚たちと登るお別れ登山の風景や、母親と最期の旅を過ごした伊香保榛名山を描いた叙情である。小津は「山小屋のともしび」を謳わせ、さらに修学旅行生の記念撮影の画像に重ねて小学校唱歌「秋の夕日に照る山紅葉・・・」を謳わせている。少年老い易く・・・の如く、人生の節目とともに時は過ぎていく・・・。そうした小津のこの世との惜別をも思わせて伊香保榛名山の場面はこの世のものとは思えないほどに美しい。小学校唱歌の持つ体験的意味を理解しえる世代が少なくなるにつれてこの場面の美しさが持つ詠嘆の意味も失われて行くのであろうか。


秋刀魚の味』もまた、『晩春』、『秋日和』と同工異曲の小津正調とも云える作品である。奇しくも『晩春』の原型に回帰することで映画監督としての小津安二郎の最後の作品となった。しかし、生涯の終りの唐突感は、白鳥の歌と云うよりは、未だ語り続けることの継続の小津の意思の在りかを伝えていて、限りなく哀しい。
 物語は、その概要を伝えることを憚らせるほど平凡である。婚期を逸しかかっている娘がいて、仄かに慕情を交わす相手がないではなかったのに、平々凡々と日和見の日常を過ごす間に機会は失われていた、と云うものである。
 物語の系で云えば、婚約者が画面に表れない方のケースである。率直に云えば、結婚ののちも娘の幸せが保証されない『晩春』系のお話しである。人生にはお伽噺のような出来事は起きはしない。しかし本当の悲劇とは人生がこれっぱかしもロマンティックでないと云う点にあるのではなく、人は人生のまだ明け染めない途上に於いて、幾多の幻想を抱いて、そして何時かは、その幻想を抱いていた頃の自分自身の姿すら忘れて、純情さ、無垢さにすら無関心になっている自身に気づ事もないのだ、まるで別人のように人は自身の後半生を生きる・・・。

 この映画には今までにない演出法がある。
 話をまた元に戻すと、娘には兄夫婦がいて、兄の会社の同僚に仄かな恋情を抱いているらしいことを突き止めた父親は乗り気になって長男にそれとなく聴いてみるように頼んだのだのであるが、すでに婚約者があるのだと云う。その結果を娘に告げ辛くてその役割を譲り合いながら、結局家長である父親がその役目を果たすことになるのだが、その夜の茶の間を描いた場面が素晴らしい。
 娘を演じた岩下志摩が、――こう、正面から、口を開こうとする父親の方に向き直るようにするのだが、その悲劇的な所作を、無表情な女性を象った能面が舞台を静かに滑らかに滑るように回転させる能楽の抒情を模倣しながら幽玄の中に写しだす。人物配置が例の雁行型ではなく、正面を、と云うか、観客の方を厳かに首を回転させながら面を向けると云うのは中々に劇的である。娘の何かが死んだのである。そのことを誰もが気が付くことはない、本人ですらも。人生とはそう云うものだ。小津の無意識の惜別を語っていると感じたとすれば深読みに過ぎるだろうか。この娘に比べたら『晩春』の原節子や『秋日和』の司葉子演じる娘たちは何と幸せであることか。要は幸せになるとかならないとかではなくて、人生を生きていく中で、人は多くのものを失ってしまうと云う事であり、失ったと意識することなく人の時間は過ぎて行くと云うことなのである。それは秋刀魚の味のように、旬だけれども少し苦いのである。

 娘はあの日のあの夜、取りあえずは無反応の反応のままこの場をやり過ごした。彼女の対応や表情に父も兄も安堵はしたのだが、ただならぬものを聴き付けた、何時もはのんき者の二男が、二階で姉が泣いていたとと云う事実を伝えに来る。『晩春』の紀子のように気丈に笑って見せるような余裕はないのである。追い詰められて、最後に結婚する。婚約者の表情は映像に描かれることは決してない、一枚の写真すら与えられることはない、これが小津の最後の作品となった。
 ここには『秋日和』の原節子の謎めいた微笑も、『晩春』の林檎の皮をむくシーンもない。例の二男が健気にも、僕、明日からめし作るよ!と健気にも言うのである。

 今日、『秋刀魚の味』を鑑賞する中で、映画のストーリーの良しあしを論ずる以前に、中間に取り入れられた岸田今日子演じるバーのマダムと、加藤大助と笠智衆が演ずる軍艦マーチの場面の秀逸さについては触れておかなければならない。
 父親は彼の勤務地に近い工場地帯の駅前で、偶然出会った戦時中の元部下に誘われるまま出かけた場末のバーのマダムに亡くなった妻の面影を見出す。具体的に似ていると云うのではなく、顎のあたりがどうのと、極めて曖昧な人間観察である。それで長男も連れて行くのだが、彼の云い分では少しも似ていないと云う。それでも娘を嫁がせた最期の夜は、ここに寄って深酒をしてしまう。
 今はなき軍艦マーチ、岸田と加藤の敬礼するおどけた姿が実によい。人は軍艦マーチに送られて多くのものを失っていく、と云う意味なのである。戦後は過ぎ逝く、小津は遠ざかりゆく、と云う感慨が深い映画である。