アリアドネの部屋よ、ふたたび!――休館のお知らせに代えて アリアドネ・アーカイブスより
アリアドネの部屋よ、ふたたび!――休館のお知らせに代えて
2013-10-01 10:13:43
テーマ:アリアドネの部屋縁起
感受性の受容体としての主観にはさまざまな形がありますが、芸術的鑑賞
の主体が、単なる日常的な主観や、学問や公共性の主体をなす論理的な
主観(理性や知性)と同じものであるのかどうか、これは考えてみなければ
ならない問題の一つでしょう、これをどう考えるかによって、各自の考え方
も様々なあり方をみせます。
芸術作品が作者の世界観や人生観、主観的なものの見方や考え方、さら
には意見表明の場を超える意味を持つと云われたり、優れた芸術作品は
誕生した時から作者その人とは別の存在、へその緒が切れた固有の独立
性を持つ、としばしば言われてきた理由はそこにあるのかもしれません。
そうでなければ、芸術的鑑賞や芸術的経験は、さまざまな主観的な理解が
同等の権利と価値で平和共存すると云う不可思議でもあれば奇妙な井戸
端会議的な世界がとどめもなく広がり、そこには学問的な批評や議論も存
在せず、美学や客観的で厳密な学問的な研究もまた存立の根拠を欠く、と
いうことにならざるを得ないでしょう。
適当な例が見当たらないので思い付きを言うのですが、前にも何度か触れ
たと思いますが、世紀末から20世紀の初頭を生きたマルセル・プルースト
という作家がいました。その若きマルセルが作家としてスタート台に立つに
あたって最初に解決しなければならないと考えたのは、『サントブーヴに逆
らって』、つまり自然主義的な現実とは異なった芸術家の制作空間の意義
をあらゆる芸術外的な属性から切り離すことにあった、と一般には理解さ
れているようです。
つまり優れた芸術作品は、作者の伝記的な背景を論じることでは尽くすこ
との出来ない、手の届かない固有な領域が存在するということですね。
アリアドネのお話は、迷宮――自然主義的な世界や日常的現実――の「
秘密」――怪神ミノタウロスの秘密とは愛なくして生まれたこの世を意味す
るのかもしれない!人と獣の間の子、呪われた物心崇拝の記憶は遠くモ
ーゼやマルクスの神話にまで遠い木霊を残す!――を理性(テーデウス)
――あるいは文化・文明の寓意か――と共労作業を通して克服するので
すが――そのラビリンスを巡る長い道程が有名な「アリアドネの糸」である
――、二人はナクソス島まで逃れるのですが、夢見がちなアリアドネと、理
性を象徴する冷徹なテーセウスの気質に齟齬が生じて、それが旅の睡魔
に襲われたアリアドネが転寝をしているうちに、あろうことかあれほど堅い
約束の元に誓われた夫婦になるという約束、その愛の誓いも微塵に捨て
去られ、島にただ一人置き去られるという悲劇、――つまり芸術的な経験
は、自然主義的な経験――この世的な経験――とも理性による経験――
学的な営為や公共的な経験――とも異なるものだ、という真に古典古代の
ギリシア的な世界以来の人類史的含意があるような気がいたします。
以前はかく考えてブログの名前を「アリアドネの部屋」とは命名したのでし
たが、何事も成し遂げられないまま、いたずらに時間ばかりが経過してしま
ったようです。
とはいえ、芸術的受容の経験の中には歓びというものがあります、かって
アリストテレスが学ぶことは、そのことゆえに楽しい!といったように、それ
に似た経験を感じます。歓びは、外から、あるいは自分の内面から響いて
来るように感じることもありますが、それ自体の中にもあるのです。芸術的
経験の受容のさなかに、何のためにということとは一切関わりなく、そのこ
とゆえに楽しいです。それは自発的で、何事にも煩わされることのない、地
上での稀有な経験の一つなのです。
「稀有な!」と申し上げたのは、わたしたちは何時までもこの地上に留まる
事を願うことの叶わない、死すべき運命的な存在であるからです。人間の
みが自らに与えられ刻印された残酷で酷薄な運命を日々生きる過程にお
いて反芻し、そこから非情な哲理を学びとる稀有で呪われた存在であるの
ですが、死してもなお、そこには悔いる事のないような歓びを、古来、芸術
は私たちに与えてくれてきたのです。
なお、11月よりは、シェイクスピア四大悲劇の世界を考えてみたいと思い
ます。
コメントも遠慮されて、決して読みやすいとは言えない文章を読んでいただ
いている方々に、深く御礼申し上げます、その方たちにも、幸あれ!、と。
田の稲刈りも終わり
読書の秋を迎える爽やかんに
感じられるこの日ころ