アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ぼろぎれのように・・・・・ アリアドネ・アーカイブスより

ぼろぎれのように・・・・・
2013-11-10 18:24:55
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 最近、コンビニエンスストアの前など街角にたむろする若者たちを見かける。一見不敵であるようにも見える。しかしどうかすると、どうしてこんなところにと思われる街角の暗がりに蹲っている人影を見かける。地べたにぺたんと座ってものを食べていることもある。一概に決めつけることはできないのだが、私が思い出したのは次の点である。最近の報道では正規と非正規の比率が6対4になったのだという。これは労働の問題を超えて社会の問題である。何故かと云えば、食うや食わずの永遠の待機状態に置くという人道上の問題のほかに、国を支える納税義務のある市民の育成に国や企業、共同体が無関心であるという点である。靖国問題従軍慰安婦の問題ではあれほど愛国心の塊のような発言をする人々が、こうした国益に反するような自分たちの施策、長年月の社会的行動に対して無関心なのはどうしたことだろう。企業や行政体が存立する以前に国の存亡にかかわる長期的な見透しについて無関心なのは何故だろう。日本の行政長や代表取締役性は取り換えの利く短期決算型であるというのも理由の一つではあろう。いずれにせよ遠い昔のアテネ民主制が人気取りとデマゴギー政治によって衰退して行ったことを思うと何やら意味深長である。ソクラテス裁判と云うのも孤高の哲学者の戦いと云うより、一人の愛国者の動向を裁いたという意味で、つまり真の意味での国益と云うものを等閑視した政治風土に対する告発と云う意味で、政治史的にも重要な出来事であったのである。

 とは言え、日本の現状に戻ると、日本の保守や右翼と称する方々はもっと真の意味で右翼や保守になっていただきたいのである。現在はいいのかもしれない。しかし自分たちが高齢期を迎えた時、実質的に支えてくれる対象はこうしたぼろ布のように放置された世代なのである。国民年金社会保障の仕組みは、預貯金のように自分たちがためた基金をそのまま還元してもらうというシステムには残念ながらなっていない。活動する現役世代が複数の先行世代を補償するという後精算的な仕組みになっているのである。後続の世代を育成するということなしには自らの世代の保障を達成できないのである。にも変わらずパソコンやテレビ等のメディアを開けば、相も変らぬ成功物語、根性物語、そして新世代の感性に適した起業物語の数々である。これらの話が無益であるとは言わないけれども、賛否以前に無意識に前提されているのは、冷徹な自助努力の哲学である。働かざる者食うべからざるの哲学である。

 こうした適者生存の哲学、社会が人を使い捨てにするとか以前に、教育がかる社会のシステムに加担している。学力のあるものとないもの、偏差値の高いものとそうでないものとの選別は、社会本来の必要と云うよりはエリートなりリーダーを選び出すために必要なのである。そのエリートなりリーダーとは何なのだろうか。もし社会が生産性と効率性を優先しそれ以外を淘汰する一元化した社会であるならば、それは単純なサルの社会学、人を効率的に支配するためには5パーセントのエリートが必要であるという「高崎山政治学」が適用できる。そこでは支配するものとそうでないものの関係は多すぎても少なすぎてもいけなくて、5パーセント程度に最適解が存在するらしい。5パーセントとは統計学にいう正規分布から導かれる自然の法則に類似したものであるらしい。

 人間の政治学が、かかる初等の統計学にうよって条件づけられていることは残念なことである。偏差値教育の弊害は5パーセントの条件を満たさなかったものを等しく無用のものとする社会システムである。子供たちは社会に出るより前に、毎日毎時教室で、塾や近隣社会で無用なものであることを肝に銘じて教えられるのである。本人の能力や個性とは関わり合いなく、単に高崎山政治学の必要によってのみ「統計学的」な現実が是認される。しかし個人が社会にとって無用かどうかと云う問題と5パーセントリーダー論は無関係なのである。5パーセントと云う統計学的法則性は単に社会がものの生産と消費において能率や効率のみを優先的に志向する単志向型の社会がそうであると云うにに過ぎない。実際に社会に出てみれば分かるう事だが5パーセントの有意な仕事とそれ以外があるわけではない。高崎山政治学が適用できる社会では際立って創造的な仕事というものがあるわけではない。偏差値的格差と職業の質的創造性は整合していないのである。各人の日々就いている仕事の違いは高々性格の違いにも等しい程度の違いに過ぎないのである。違うのはあたかも他に卓越しているかに見えるステイタスの幻想性に過ぎない。しかしそれが5パーセントの枠組みから排除されたものにとっては、永遠に固定された実力や能力、身分の相違であるかのように見えてしまうと云う事なのである。

 偏差値教育の弊害は、本来市民社会の職業と云う平準的で本来質的な差異が存在しない領域で、サルの社会並みのエリートを選別させるための枠組みを創作するための思惟的な工作に過ぎない。それを推進するイデオロギーは自助努力や向上心の哲学である。確かに、いつの世も自助努力や向上心が必要であるという点では、不変の思想であるようにも見える。努力に見合った評価は正当であるという哲学である。しかしこれが努力しない方が悪い、となると少し違ってくる。頑張ったものが評価されてなぜ悪い、となるとかなり違ってくる。たしかに自助努力の哲学は少なくとも成功失敗の確率が半々であるというならばなお、自然の論理を残しているとは言えるのだが、それが5パーセントであるという点に自然法則を装ったある種の偽装が見え隠れする。なぜなら統計学ファサードによって偽装された自助努力の哲学とは、5パーセント枠に入りきらなかったものを努力の足らないもの、怠け者であると断定するからである。統計学的な現実にかくして道徳価値評価が重ね合わせることによって人間は内面からも規制を受ける対象となり、これが後期資本主義による人間統治の技法となり、高崎山政治学の完成型が成立するに至るのである。

 教育機関と企業社会の連携による社会的犯罪はこの後も継続されて子供たちを囲い込む。能力主義実力主義と云うわれるものは実際には偏差値教育の結果を是認する。職位における専門性と云う概念が曖昧な日本の企業社会では客観的な評価基準なり業績評価が成立せず、実際には依怙贔屓による人閥や学閥による属性的な成果が能力主義実力主義と混同される。先日、高齢者の再雇用の現実をルポした晩軍事をNHKがやっていたが、大企業で入社以来何十年と人事畑一筋に働いてきたある高齢者が、人事制度をゼロから立ち上げられるかと問われて、日本における業務と呼ばれるものが専門性と呼ばれるものと如何に遠い位置にあるかが了解されるのである。また能力主義実力主義とは言いながら日本の抒情的な人事に伴う建前と実態の乖離は労使の間に倫理的退廃を生む。恵まれたものは恵まれたものなりに、そうでないものは自分の狭い既得権益を守ることが至上命題となり、かつ既得権益の範囲で最大限の自己利益を得ようとするから汚職的な発想がついて回るのである。そこからは恵まれたものもそうでないものも公共性とは似ても似つかない正反対の事物を生みだしてしまうのである。

 誤解を正すためにいうならば、個人間の能力の差が大きく出るのは専門性やどれに類する領域においてである。ルーチン化された日常業務の領域ではない。5パーセントを選良とするような高崎山政治学の領域ではない。高崎山の政治教室では
部分的効率のための命令と服従が至上命題化され、アイヒマンのような意味を問わない姿勢が尊重される。意味の排除は、5パーセント枠に入り切りらなかったものを絶えず無用者の自問自答の前に立たせ、格差を目に見えるものとして是認させるのである。しかし部分効率性は全体効率性を裏切るものであるという全体性の不在、意味への不問、意味の不在が最終的には効率性や合理性を裏切ることになる。

 アウシュビッツもまた、高崎山政治学の極限態のひとつである。生産性向上と能率の、命令と義務遂行の、勤勉と自助努力の哲学であった、皮肉で云うのではない。

 わたしたちは先に、如何なる先験的な議論を超えて人を無価値であると断定するアウシュビッツの哲学について学んだわけである。そこでユダヤの人々が直面した現実は意味の不在と云う事態であった。極端な非人間的な状況に置かれることで次々と人間的な属性の一つ一つを失っていった人々を最終的に待ち構えていたのは、内面的にも自分自身をぼろ布のように観ずる哲学であったという。意味に先立つ不在である。かかる後期資本主義の現実のいち様態に対しては従来の存在論や認識論では太刀打ちできなくて、存在と非存在を超える思念が必要とされるのである。