アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『ハムレット』序章――柄谷行人に逆らって――四代悲劇を論じるために・その1 アリアドネ・アーカイブスより

ハムレット』序章――柄谷行人に逆らって――四代悲劇を論じるために・その1
2013-11-14 23:12:56
テーマ:文学と思想



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・ 随分むかしに、柄谷行人が『意味と云う病』(昭和54年)と云う本の中で『マクベス』について書いている。柄谷によれば『マクベス』が四代悲劇の他の作と大きく異なるのは、悲劇の本質が「空位」にあると云う事にある、と云う。通常悲劇の主人公は、自らの「本質」を隠し、世の誤解に健気にも堪えて最後はことを成就するのだが、その典型が『ハムレット』だろう。秘匿された「ありのままの私」、ありのままの真実を開示する限りにおいて『リア王』や『オセロ』も変わりはしない。ただ一つ『マクベス』のみが、自らの名誉回復を望まない、柄谷流にいえば、マクベスのみが「意味と云う病」から「自由」である、と云う事になる。
 柄谷は「意味と云う病」からの自由、既成の概念や観念、理論や有力学説の概念枠を通して読むことを否み、「素手で」文学作品に向き合うことを推奨しているかのごとくである。

 柄谷が言おうとしていることが誤解を受けやすいのは、概念や観念によらずありのままに芸術を鑑賞すべきであるという、誰もが言えそうな最大公約数的な言説と同じものだと誤解を受けやすい点である。柄谷の文章を少し丁寧に読んでみると彼が言わんとしていることはそう云う事だけではなく、言語表現に伴う不可避の統語法(シンタックス)のことである。言語とは人間的主体の意味無意味の形成作用に先立って意味文節的であるのだが、柄谷はそれをそのように理解しないでカント哲学における意味形成の超越論的な場のようなものを想像して、意味不意味以前の、不条理の哲学をも超えた意味形成の常なる拒否反応をマクベスの人間像の中に見ているようだ。

 ところでカントの超越論哲学は先験的感性論において柄谷のようにも読めるけれども、カントにとって意味成立の現場はあらゆる統語論からの自由と云う事ではなく、意味形成を原理的に考えるための、意味の、「一歩手前」、を考えるための論理的な操作に過ぎないのである。カントの超越論的哲学が切り開いた意味に先立つ未然の地平とは柄谷のように到達すべき着地点のようなものではなく、ものを原理的に考えるための出発点にすぎないのである。カントの目標は「意味と云う病」と云う時代批評にあるのではなく、反対に意味の形成にある。病んでいるのは意味形成と云う病理に憑りつかれt認識論的主体ではなく、意味形成作用に生理的にアレルギーを起こしかねない柄谷のような現代の一部の人間たちである。

 カントがものごとを原理的に考えるために考えた論理的な操作や手続きに過ぎないものを、柄谷は世界観のようなものとして理解しているように見える。意味的世界の一歩手前の世界を考えることは――意味的世界すなわち「経験」に先立つから人は「先験主義」と名付けた――カントにとってあらゆるものを批判の法廷に引き出すことであり、すべてを批判、吟味しつくした果てに――それゆえ「批判主義」と云うのである――しっかりとした基礎の上に意味的世界を構築する――それゆえにこそカントは自らの事業を基礎工事と命名した――ことを志向したのであって、その前提を柄谷のように認識論的な意味での成果や到達点のようには考えなかったのである。
 カントの場合は、その意味的な世界への強靭な意志が、例えばフランス革命に対する一貫した評価や、最晩年のプロイセンによる言論統制に対いての老カントの、まるで青年のような果敢な態度を貫く言動力(原動力)となって現れたのだと思う。

 なぜハムレットを論じるに先立って柄谷の諸言説に触れるかと云うと、先般論じたフランクルの『夜と霧』がまさしく、アウシュヴィッツと云う人間を無価値なものに貶める、意味を奪われた世界に対する重大な抗議であったことを思い出していただきたいからである。ハイデッガーの哲学が意味剥奪のポロコーストの嵐が吹き荒れた30年代の現実に対応していたように、そのより普遍的な形態である高度資本主義や大衆社会と云う後期戦後の日本の現実に柄谷の哲学は程よい一致を見せているというイロニーにに気付いていただきたいのである。自己評価が他者世界の評価では、吉本隆明的な意味での「関係の絶対性」の場では異なった役割を演じると云う事をここではイロニーと云う言い方で用いている。
 第二に『ハムレット』を取り上げる理由は、柄谷の『マクベス論』が意味形成の「以前」を問題にしたように、それと類比的に際立たせるために意味形成の自己展開の遍歴史とも自伝史ともいえる『ハムレット』を対抗馬として引き出したいのである。