アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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岸田今日子の映画『悪党』(1965年)アリアドネ・アーカイブスより

岸田今日子の映画『悪党』(1965年)
2013-12-06 18:34:01
テーマ:映画と演劇



・ 秋の日の午前十一時、観客席凡そ250名の福岡市総合図書館「シネラ」の新藤兼人特集に臨んだ。平土間の座席と後部は映画館には珍しい階段席である。

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 岸田今日子35歳、実を言うと全盛期の彼女を知らないのであった。どちらかと云うと個性的で癖のあるテレビや、小津映画での秀逸な演技で決定化した感がある彼女と、清楚な人妻を可憐に演じる美人女優と云いのは場違いなものと感じられた、

 映画の粗筋は、高師直と云う南北朝時代を生きた実在の武将の、人妻への横恋慕がテーマになっている。権力者は後の吉良上野介にも比肩される意地悪さを発揮して老人性好色性を貫こうとするのだが、顔世と呼ばれるむかし宮廷に仕えていた人妻の貞操観念の強固さに阻まれて、自裁した彼女の首級以外は得られないのであった。

 いつの世も貞操が大事だと云うのならばつまらない映画である。大事なのは彼女がむかし天皇付きの宮廷女官であったことである。藤原道長の栄華の時代は知らず、院政崩壊後の宮廷は権力と富を武家に奪われ、古今伝授と宮廷儀礼の祭式学以外は得るものもなく、かといって権力闘争には執拗な関心を抱きつつ、それゆえ陰湿な陰謀や調略と云う手法で神代以来の主体性を保とうとするのだが、恩賞と云って他になく、自らに棚引く共通利害のある武将とマキアヴェリめいた野合的連携を強めるため、所領や封土がないために自らの手つきの側室や女官などを褒賞として与えるほかはなかったのである。二朝併列期の赤裸々な人間関係を、後深草院二条と云う元女官が『とわずかたり』の中に書いている。不謹慎な話である。

 もののように、あるいは美術品のように権力関係の構図の中で譲渡される、そうした境遇を当然のこととして、それ以外の世界を知らない一種の箱入り娘?、深窓のアラビアンナイトに出てくるような御息女が、田舎の封建領主に下賜されることで初めて、「貞操」と云う観念を知る、その観念のために死んでいくと云う、哀しい物語なのである。貞操と云う観念が詰まらないかどうかではなく、人が観念と云う抽象的なもののために死に得るものである、と云う偉大なる日本人の発見がある。

 クライマックスは、一軒家に追い詰められた塩冶判官の一党が、取引条件として妻女を差し出せば安堵し許そうと云うものである。夫を愛するが故の自己犠牲の倫理に傾きかける彼女に夫は、宮廷女官の生得の性質を指摘する。調略や政治取引はお手の物ではないかと。心無い言葉である。

 二人は死後の抱擁をし、夫は単身、敵陣に切り込み、妻女は自害する。
 果たして言われているような夫婦の純愛物語なのであろうか。男たちが主導性を発揮する調略や暴力の世界とも、宮廷風の自己犠牲とも異なった、貞操と云う人知れぬ観念のために、なぜなら観念と云う架空の世界においてこそ、初めてそこで人として扱われた世界のために死んでいく、そうした密やかな決断を秘めた物語である。

 最後に、題名の事に触れておく。何ゆえ、『悪党』であるのか。歴史的存在としての悪党とは過渡期の存在であり、ある強固な秩序が崩壊し、新たな次の秩序の成立には未だ間がある時代の自由闊達な室町人の生き方である。それを代表するイデオロギー下剋上である。
 妻女のように、抽象的な観念の世界に生きるとは、物質尊重の私利私欲的な権力の世界の対極にある生き方であり、例えばこういう生き方が凡そ三百年後の赤穂浪士などの生き方を生み出す基層となるのである。これを代表するイデオロギーは上剋下の思想である。妻女のような生き方は、のちの封建制イデオロギーの最も早いことぶれであり、あるいは歌舞伎的様式美に重ねて語られた歴史的投影、治世の技法とも考えられるのである。なにゆえ、自由闊達な悪党の生き方が勧善懲悪の処罰の対象とされ、封建制イデオロギーがいつの世も変わらぬ庶民の支持を得るのか、それはまた別に考えられなければならない問題である。

 ともあれ、単純な美女の類型にとどまりえない、行方を知らぬアイデンティティ不在の女の哀れさを表現するためには岸田今日子の存在感以外には考えられなかったであろう。妖艶にして華麗、可憐にして哀切な孤独を演じて、女優・岸田今日子の美しさに初めて目を見開かれたのであった。モノクロの陰影と自然光を多用する新藤兼人の映像は匂うようでいて妖艶、孤愁孤独の果ての選び取られた純粋さを描いて日本映画には珍しい存在感を発揮しているのである。