アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

冬の日の『ラ・ボェーム』 アリアドネ・アーカイブスより

冬の日の『ラ・ボェーム』
2014-02-13 21:06:11
テーマ:音楽と歌劇




・ 寒い冬の日の午後、図書館のシアタールームにDVDの鑑賞に出向いた。ここ数年、同じものを観ることになるのだがやむを得ないことである。ミレッラ・フレーニの『ラ・ボェーム』である。

 パリの貧しい屋根裏部屋にすごすボヘミアンたちの話、ここに同じ環境の貧しいお針子娘が住んでいて、二人の間に愛が燃え上がるのだが、愛の錦、愛のコブラン織はこの世の悲惨さ、惨めさを凌ぐほどの輝きを絢爛と誇りうるほどのものであるのだが、ひと時の愛ではなく、愛の生活が継続であるとするならば、春を待つ名残の雪のように、春の到来を待つまでもなく消えていかざるを得ない、簡単にいえばそういうお話である。

 舞台はカルチェラタン地区とサン・ジャック街である。恋は観念的にはいかようにも可能だろう。しかし経済力の支えがない恋にはこの世の場所はない。純粋な、二人だけの間の感情だけだったものが、貧しさゆえに、嫉妬や僻み、そして猜疑心や憎悪などの人間的な感情に汚染されていく。娘既に過労と貧しさゆえに肺を病み生存の可能性は閉ざされているのだが、自らはそれを理解しない。古い昔の名残であるパリの城門での恋人と友人のひそひそ話を傍で漏れ伝え聴きながら、やっと真相を悟る。――自分が不治の病に侵されていることを。

 素晴らしいのは、第一幕の、私の名前はなぜかミミと呼ばれるのと云う有名な歌唱部分アリアと、第二幕の四人で二通りの愛を描いたアンサンブルの場面である。男たちの負い目は、自らの経済力で安定した生活を恋人に保証してやれないために、彼女たちは自分たちがそれぞれの流儀で生活の糧を得ざるをえない、様々に別様の生活の断面、お互いの手の届かない外部、恋人たちの「外部性」へと注がれる、疑心暗鬼にある。この第二幕の雪の降しさゆえの疑心暗鬼と懐疑心を境に、世俗の愛(マルチェッロとミュゼント)と超越の愛(ロドルフォとミミ)の二つのい愛が、まるで対位法のように互いの緊張を孕みながら、それぞれの絶唱を籠めて歌われるアンサンブルの魅力にある。
 アンサンブルの魅力とは、極端に異なった二つの感情を同時に歌うと云う技法である。通常の演劇では、観客が俳優が語る台詞を正確に読み取り理解させるために同時並行にふた用の会話が語られることは稀である。しかしこれは考えてみれば不自然なことであって、わたしたちの日常生活では普通の出来事として目撃しまた体験もしている、このことが演劇の世界では演劇上の約束事として採用されないと云うのであるが、オペラではそれを音楽の力で可能なものとしている。可能とするばかりではなく、通常の音楽の統一的な調性では得られないような、非現実的、超現実的な美を与えて、歌い手たちをめくるめくようなこの世の外に連れ出してしまうのである。

 アンサンブルと云う特有の音楽的な技法はモーツァルトのオペラで頂点を築くと思うのだが、オペラが通常の音楽や文学を超えると思われるのは、それぞれに並行して語られる命運と云う、音楽的な技法、アンサンブルの魅力に他ならない。
 『ラ・ボェーム』に描かれるような、貧しくて力弱い、貧しくて平凡な若人たちのドラマが、声を潜めて内密に語るべきところで、テノールとソプラノの声量を最大限に生かして劇場の隅々にまで届くように歌い上げると云う歌手の修練を経た大胆な行為によって、それをドラマの進行上、不自然と感じさせるどころか、人間であることを超えたものたちのドラマであるのだと、わたしたちを観念させるのである。

 そういえば、先週の日本のン週末は今冬一番の寒波が襲って日本全土を雪で覆った。同じく深々と雪が降り積もった古いパリの街の外郭をしめす城門の傍らでミミは最後の力を振り絞って、恋人の親友の画家マルチェッロに「助けて!」と命乞いをする。それは愛から見放されるるある自分たち二人の命運の事なのだが、そのあと二人の親友が話す内緒話を木陰に隠れて聴くことで、死すべき運命をひとり知るに至るくだりは先に書いたとおりである。今回は、このミミの絶望の深さがなぜか身に染みた。この身に染みる感情は誰もが感じる感情なのであって、それで最後の第四幕の末尾近くで死の縁に立たされて辛うじて平衡を保っているかに見えるミミのために主人公のロドルフォを除く三人のボヘミアンと画家の不実な――と云われてきた恋人ミュゼッタが、自分たちにできることは何かを問う場面の伏線となっている。この、四人が四人とも非力さの中心において、ミミの死を迎える。しか彼らはミミの死に気付いても、肝心のロドルフォがしばらく気が付かないでいると云う悲劇性の時差が、このオペラの演出上の特徴をなしている。悲運の進行を正視できなくて部屋を外してしまう友人たちの思いやり、二人の恋人たちを除いて無人となった、ひっそりとして風よけのために降ろしたカーテンの陰となった屋根裏部屋で、ミミ!と云う、よく知られたプッチーニ風の絶叫の響きとともに舞台は暗転して終わる。
 このオペラの儚さは、ミミが恋人に自己紹介を求められて、自分の素性は一言で語りうるほど僅かなものであると云う自虐にある。

 ここでも考えるのは、オペラと云う言語の特異さである。ここでは音楽的言語が言語の真空の境界面で屈折することなく、息切れすることなく真っ直ぐに頂点を突き抜ける点である。しがないへぼ詩人と貧しいお針子娘の平凡な愛が神々しい芸術的感興の輝きの中に甦る、これを好いた惚れた風の、恋は所詮観念であるとか恋の盲目性からくる恣意的な感情と云う事はできない。観念が同時に実在――イデアールな存在でもありうるような、日本人には知られていない感情なのである。それは『ラ・ボェーム』が特別であると云う意味ではなく、オペラでは普通の出来事、数ある諸芸術の中でもオペラに固有な、稀有と呼べる経験の一つなのである。