アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ベートーヴェン『第九』第四楽章――福岡大学市民カレッジを聴講する アリアドネ・アーカイブスより

ベートーヴェン『第九』第四楽章――福岡大学市民カレッジを聴講する
2014-11-14 10:48:01
テーマ:音楽と歌劇

  

 年末にベートーヴェンの第九交響曲を聴く、というのはいつしか日本人の伝統となってしまった。日本の国民意識スノビズムを突くよりも、ここは素直にこの大曲が持つ大らかさのように、全てを許すべきである、と云うことなのかもしれない。
 スノビズムと云えば亡くなったわたしの父は君が代と念仏が嫌いで、生前は葬儀の時はこの曲でおくってほしいと言っていた。しかし皮肉なことになぜか選ばれたのはチャイコフスキーの『悲愴』交響曲アダージョで、それ以降この曲が聴けなくなってしまった。あるいは考えようによってはベートーヴェンの第九がこのような運命にならなかった事を喜ぶべきなのであろうか。死は何年経っても癒やされることはない、そういえば十一月は父の命日月なのであった。

 つい話題が湿っぽくなってしまったが、まあ、そういう事情とは関係なく近所の私立大学の夜の講座に出掛けたのである。 
http://www.hum.fukuoka-u.ac.jp/user/ger/film/Flyer_Symphonie_Nr.9.JPG

 分かっているつもりでも何でも人の話は聴くべきだ、とこの講習会に参加して思った。
 講義の内容はカラヤン指揮による第九・四楽章のDVD 鑑賞と永田義久先生の解説である。永田先生の専門はドイツ文学、ヤーコプ・グリム言語学の研究者ときいている。そのドイツ文学者が他流試合のように、あるいは副専門のように、必ずしも得意ではない領域で、学者性を離れたところで、のびのびと、自らの趣味を語るかのように、音楽を聴く歓び音楽を学ぶ喜びについて語る、と云う姿勢が新鮮であった。学究だから専門に詳しいことは了解できる、しかし、その以外の領域でどういうことに関心を持っているか、と云う学的な広がりは、学者としての人間性を知らしめるものなのである。

 専門家が専門領域を薀蓄を傾けて語ると云うのも良いものだが、専門家が素人に帰って学ぶことの新鮮さを語ると云うスタイルも良いものである。そこでは教えるものと教えられるものとの対比関係は弱められ、共に学ぶと云う不思議な空間が出現するのである。考え直してみれば、ベートーヴェンの第九が「友よ、歌え!」と指示するとき、そこに生まれた共生的な空間もまたこうしたものなのではなかったろうか。そう云う意味では先生の学問に向き合う姿勢は、『第九』的であった、と云うことになる。ついでに言うと、――

 以前、東京の岩波ホールに『ハンナ・アーレント』と云う映画を見に行った折に劇場を取り仕切る岩波社員の官僚主義的な姿勢に辟易したものだが、それとは逆の事態が起きているのである。つまり上映される演目はそれを運営する劇場主体の雰囲気とは無関係ではあり得ず、上映する側が一度でも映画を見て、それがどういう内容のものであり、それを固有の空間の中で上映することの意義についておさらいをしていたならば随分違っていた、と思うのである。天下の岩波、この程度のセンスは欲しいものである。

 さて、前置きが長くなったが、永田先生の第九の講義、それは音楽と人類の出会いを語る壮大な歴史絵巻でもあるかのようであった。
 第四楽章では周知のように、第一楽章から第三楽章に至る主題が回顧的に呼び出され身分を吟味される。コントラバスの呻りはベートーヴェンの肉声でもあるかのように、、そのようではない!もっと違った風の曲を!と誘う、そしておずおずと歓喜のテーマが低音で出てくる。
 ごつごつとしたコントラバス通奏低音から次第にヴァイオリンに引き継がれて歌うように、それが歓喜へと連なっていく音の調性と調和は、まるで言葉を覚え始めたころの母親と乳児の対話のようでもある。あるいは文献としては知っていた「愛」と云う言葉の意味を、若者たちが実際の経験を通してその内実を満たしていく、その経験の筋道のようでもある。
 こうして第九の回想しては現在へと回帰して来る時を超えて往還する、音と時間の響きあう調和と和声を通して、最後にはドイツ音楽史をなぞるかのように、バッハ風の宗教的な音声を力強く響かせ、さらにはオペラの超絶技法によるソプラノ、アルト、テノール、バスの自在な朗唱を駆使したアンサンブル形式を模倣しつつ、再現しながら、人類を寿いで終わると云うのがこの曲の余韻である。

 まあ、簡単に要約してしまったが、こうして解説を聞いて聴くとベートーヴェンの最終楽章の25分間が如何に偉大な曲であったかが分かる。音楽曲それ自体を聴くのも楽しい経験であるが、内容や形式を学ぶことによって理解は一層広がるものであると云うことを感じた。

 大学の講義であるから最後は質疑応答となった。
 わたしの質疑は、第九交響曲の内容と形式をかくも分かりやすく解説していただいたことの御礼と、特にオペラ再現部分、ベートーヴェンはこのパートを作曲するに当たってどの程度モーツァルトを意識していたか、この部分の音の響きは明らかにモーツァルト音楽の晩年に於ける達成、オペラ『コシ・ファン・トゥッテ』のアンサンブルに大変似ていると思うのだが、ベートーベンとモーツァルトの音楽観の違い、これは常々大変い面白い課題であると思うので、ご存じのことがあればお聞かせ願いたい、・・・云々。
 お答えは、ベートーヴェンは一度モーツァルトに会っており、オペラの領域では到底かなうものではないと観念していたらしい、と云うお話であった。

 二人の天才が持つ相異なる音楽観、拮抗し時代に対峙する音楽観、一方は音楽の絶対性を通して人類と人生を手繰り寄せ音楽の責務について如何にもドイツ風に語る、他方は、例え人類が死に絶えても音楽は存在すると云う、音楽の純粋性と超越性の夢に憩う。一方は、それでもフランス革命が切り開いた啓蒙への理想を今一度、人類の永遠の記憶として刻印しようと云う意志を遺言として残すために最後の指揮棒を振ったのに対して、他方は人間の軽薄さや愚かさについて無関心ではあり得ず、人類が下品さと人類を超えた諧謔の底に沈む時こそ、何故にか音楽は美しい!と云う20世紀以降の不条理を予感するかのように、ごみ芥と一緒に共同墓地に葬られた一人の天才の軌跡とを!