アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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水ながるるところ――ある荷風論、『すみだ川』と『ひかげの女』そして『墨東奇譚』まで アリアドネ・アーカイブスより

水ながるるところ――ある荷風論、『すみだ川』と『ひかげの女』そして『墨東奇譚』まで
2014-04-23 23:46:58
テーマ:文学と思想



・ 永井荷風は都市論として洋の東西を比較を断念しながらも、それでもあえて東京に魅力を感じるとすれば、それは水辺の魅力だと云うようなことを書いている。具体的には『日和下駄』の「水」の章にあるような、川、小川、溝、淀んだ池、水路、そして景観が開ける河口、はるけき海である。

 水辺の魅力は荷風の文学にとって特筆すべき項目ではないかも知れないが、若き日の『すみだ川』から『ひかげの花』まで通奏低音のように流れていて、ようやく荷風が晩年になって生涯の終わりを自覚するようになってひときわ高く、清冽な響きを立てはじめたようである。

 『ひかげの花』は鏡花や戦後の溝口や成瀬が描いたような花街の女の意地の張り合いを描いたような作品である。同じ花街を描いても鏡花が献身や誠実と云った徳目をとおして水際だった超越性を文学の証として最後に顕現させるのに対して、荷風の女たちはひたすらに哀れである。『ひかげの花』の母と娘は、随分昔に捨てたつもりで養女に出した子供が、同じ色町の同じ境遇の娘となって、なんとも皮肉な感無量の再会を果たす。荷風は数奇な運命を辿った母娘の再会を描くのに、くどくどと来歴履歴は語らないで、爽やかに水辺の音の記憶だけを 娘の口をとおして語らせている。不可視の、目に見えない幻想としての水辺の音の響きが生んだ母娘の再会と云う、水の手引きが生んだ縁起物と考えてよいだろう。

 一体に荷風の後期の作品――『つゆのあとさき』、『ひかげの花』、『墨東奇譚』などにはいっぷう寺社の縁起物を読むような趣がある、一種、高雅で上品な趣きは『腕くらべ』『おかめ笹』においても変わらない。辛辣さが取れて温かいのである。その温かさはヒューマニズムと云うよりも、人権などの保護される対象外の、芥か虫けらのような存在である。晩年の荷風は市井で生きる、凡そ何の価値もない男女の生き死にを愛情をこめて描いた。価値がないと云うよりも、社会の健全性に対して害虫でしかないような存在を描いた。その存在の一つ一つに魂もあれば涙を流すこともあると云う事を、控えめに、代弁するように描いた。

 思えば若き日の『すみだ川』は、若き純真な甥をみすみす死にまで追いやってしまった初老の男の述懐である。若い青年に対する、叱咤激励する荷風の声は散々に誤解されたけれども、実を言うと荷風が終生をかけて戦った欧化主義の最中にあった近代の日本の社会と云うものが、はなはだ命を粗末にする社会であることを見抜いていたことによる。そして『すみだ川』で描いた荷風の予感は杞憂で終わらずにやがて日本全体に蔓延する不吉な現実となる。

 『墨東奇譚』が散歩の途中を尋問される警官とのユーモラスなやり取りから始まっていることは知られている。何が嫌いと云って、銅像と威張る者が大嫌いだった荷風は言葉を持たない市井の小さな人々について語った。言葉を持たないとは、人権以前の人々、人権からは疎外されざるを得ない人々であった。しかし社会の保護をあてにできない、社会から見放された人々とは言ってもそれはアウトローではなかった。一流の文章家であるにも関わらず文学を男子一生の仕事とは感じていなかった荷風が、言葉に重きを置かないその分だけ言葉の存在が見えにくいのである。
 荷風の小説の中では唯一ともいえる西洋的な概念における客観小説『おかめ笹』において、社会の悪や不条理を対象化するアウトローの存在が僅かに描かれているが、この場合は魂の叫びが荷風には届かなかったようである。その存在とは蝶子のことである、近代と云う名の暴れ川の事であるが。