アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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岸恵子の美しさ、映画『悪魔の手毬歌』など アリアドネ・アーカイブスより

岸恵子の美しさ、映画『悪魔の手毬歌』など
2014-11-17 00:10:33
テーマ:映画と演劇


 悪魔の手毬歌と云う映画、監督が市川崑でなければ見なかっただろう。横溝映画ではよく舞台になる岡山の北部の山間部の村、このあたりは何度か行ったことがるが、高速道路が出来る前は中々に秘境じみたところもあったところである。最近はどうなのだろうか。宮本武蔵が生まれたところでもあり、尼子氏の落人伝説などもあるところである。

 映画は例によって、おどろおどろしい。死んだはずの老婆が忽然と村に現れて、また別の旧家の老婆が詠う手毬歌に秘められた暗号通りに殺人事件が起きる。殺され方が横溝映画に固有で、無垢な乙女が無惨な殺され方で死んでいく。

 まあ、そんな良く知られた映画の概要よりも、映画は、ほとんど一人舞台の観がある岸恵子と云う俳優の美しさにあった。もと美しかった女優、いまもなお美しい女優さんはいる。しかし時を経て、年を経るごとに別様に美しくなっていくとはどういうことだろうか。
 彼女が演じているのは20年の時を隔てて殺人を犯す鬼のような気性を裏に隠した、素朴でのんびり屋の慎ましい田舎温泉宿の女将と云う設定だが、最後に、こと現れて村の外れにある神秘的な底なし沼に入水する場面が美しい。静かに汀より進み出て、やがて黒い点となって、同心円の波紋が広がる、冬枯れのような美しさと云うか、まるで平家の最高位の女御が周防灘で入水する場面を見るかのようなのである。
 終始彼女が身に着けている衣装は、田舎温泉宿の女将と云う設定から、地味な労働着であるにすぎない。しかし紺絣の労働着がいったん彼女が身に着けると、凛とした立ち振る舞いの中で際立つのである。
 横溝映画としての役柄は、愛欲に盲目となった女の情念を秘めた役どころだが、岸演じるところの、悠々と迫らざる鷹揚さ、立ち振る舞いの無駄のない気品、延びた背筋と首筋など、とうてい異性に狂うなどと云う役割ではない。映画の内容にはまるで合っていない役どころなのである。しかしこの映画は、そんなことはどうでもよくて、岸恵子の美しさを描くためにあったのかもしれない、そんなことを思わせる映画である。

 市川崑は岸を多用して、『細雪』などでも長女役を演じさせている。谷崎の原作では、次女と三女と四女が美しき三姉妹の物語として、いまはもはやない滅び去った日本の美しさの名残として、詠嘆的に描かれているのだが、三姉妹とは対比的に描かれるはずの長女の鶴子の役を岸が演じて、観終わって時間が経てばたつほど映画とは無関心な彼女の美しさだけが記憶に残ると云う、不思議な映画でもある。高尾山神護寺奥の院の地蔵院書院で設けられた花の宴の席に集い合う四姉妹の中で遅れてきた彼女が脱いでみせる羽織の柄と布捌きの音とは京の花見そのものを圧倒するほどの美しさである。

 市川は、最晩年に於いても貧乏子だくさんの肝っ玉母さんを彼女に演じさせているが、リアリズムと云うことが余程嫌いだったのだろう。この映画では、貧乏長屋に盗みに入った青年が見破られて、そこで家族の一員のように暮らし続けるうちに彼女の天使のような気持に辟易して畏れ入ってしまう、と云うありそうもないお話である。

 もしかりに、映画と云う即物的な表現手段を用いて、ありそうもないことを描こうとした場合に、普通の女優さんの美しさでは不自然な物語が不自然に演じられるだけ、と云うことになっただろう。日本人の環境などはものともしない屹立した気性と云うものが、不自然な設定をあたかもありえたことのようにも感じさせてしまう、夢の言語学とでも云うべき特性を彼女に与えたのだろうか。

 そういえば小津の映画に『早春』と云う映画があって、若い夫婦に起きた夫婦の危機と、この世万事がロマンティックなことばかりでは済まないと云う、あの時代としてははなはだ映画らしくない内容の映画なのであるが、岸の演じた役割ゆえに記憶に残る作品となっている。

 戦後の、自由な、万事がこれからだと思われた時代であった。民主主義と自由恋愛、そして外国映画にあるようなアヴァンチュールも!そんな軽いノリで岸演じるオフィスガールは池辺良演じるところの仲間内の男を誘惑してしまう。
 池辺には淡島千景演じるところの評判のいい妻がいる。小津の映画だから、だれも殊更にヒステリックにも騒ぎだてもしない。どうも二人の間には何かあったようだ、と仲間内で了解し合う。そして面白いのは、公然とそのことが口に出されるのでもなく、仲間から一方的な疎外感を彼女が感じ得しまう場面が来るのである、まるで目に見えないリンチのように、うどんパーティーと云う戦後的な若者たちの儀式の中で。

 友人の旦那を誘惑する、よくないことは誰もが知っている。しかし何かが違う、何というか裏切られた感じ、それって約束が違うのではないのか、梯子を外された感じ。今頃になって古色蒼然とした倫理観を持ちだすなんて!

 仲間内に生じた奇妙な違和感は、若い夫婦が遠い中国地方へ転勤したことで救われる。夫婦は心機一転して改めて自分たちを見つめ直す。もやは「戦後」ではない、と。夢と希望の「戦後」は終わった。
 置き去りにされた娘の、なあんだ!と云う言葉にならない感じ、わたしたち日本人は一体ではなかったの、という感じを岸はとてもうまく演じていたように思う。

 こんな風に、岸の演技の中で、戦後は「戦後」となったのである。