アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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小津安二郎の『浮草』・旅芸人の記憶 アリアドネ・アーカイブスより

小津安二郎の『浮草』・旅芸人の記憶
2014-11-17 19:25:18
テーマ:映画と演劇


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  小津映画には小津調とでも云うべきトーンがあり、一方で熱狂的なファンを有するとともに、同工異曲でマンネリズム、退屈だと云う意見も根強くある。
 それでは小津調とでも云うべき映画作法を離れて、本格的な劇映画を造れないのかとなると、この映画などを見ると、独立した映像世界の自律的完成型についても、相当の見識を有していたことがわかる。


 この映画もまた、川端の伊豆の踊子などと並んで、いまは過去のものとなった旅芸人の記録である。かって堅気とか渡世とか云う言葉があって、二つの世界の通底不可能な隔離間が、川端の文学世界と同様、抒情と云うものを生む。

 旅芸人の一座の親方を鴈次郎が演じていて、京マチ子と若き日の若尾文子が花を添えている。
 話と云うのは、旅芸人の一座が興行のあてもなく三重県のとある港町を訪れる。案の定、興行は思わしくなく、誰もがこの町を選んだことを不思議に思うのだが、それには理由があって、親方の隠し子がひっそりと母親とともに居酒屋を営んで過ごしているのである。一座の古いものたちには事情を知っているものもいて、いままでにも何度かこの地を訪れ、父子の対面もないまま、叔父さんと偽って遠くから見ているだけで満足だと云うのである。
 親方には彼なりの芸人としての誇りもプライドもある。しかし彼には夢があって、密かにもうけた一人子には、普通の人生を歩ませたいの望んでいるのである。彼が旅先から幾度となく送り続けている仕送りも、せめては専門学校を出て立派な人間になることである。

 そうした事情を知らない、女副座長は事情の一端を知るに及んで、嫉妬の塊と化す。ある日一人で劇を見に来ている女房を桟敷の片隅に見出すなり激昂し、別の日の舞台が休みの日に、大概ここだろうと辺りを付けて居酒屋に勇敢にも乗り込む。杉村春子演じる女房と京マチ子の渡世と娑婆を隔てた両世界に生きる者同士の気迫が、まるで真剣勝負の名場面かやくざ映画の出入りのように、格式だった様式美を見せて素晴らしい。
 女芸人には渡世を渡り歩いて生きるものの固有な誇りもある。娑婆に生き得ぬものの誇りを背負って一言申し上げると云う口上の様式である。対する杉村は一歩下がって相手をよく見ようとするかのように鷹揚に構える。真剣勝負である。

 京マチ子はこれ見よがしに、2階にいる一人息子に聞こえるように喚き散らす。一番痛いところに踏み込まれて動揺する鴈次郎と京との押し問答。罵詈雑言の挙句に彼女が頂戴したのは、旅芸人風情!などと云う、世間なみの差別意識であった。
 怒りの捌け口が見当たらない女旅芸人は、妹分の若い若尾文子演じる踊り子に、鴈次郎にとって至宝であり、かけがえのない一人息子の誘惑を依頼する。最初は意図が分からなくて躊躇するのだが、真剣さにほだされて軽い気持ちでやってみることになる。
 こうして、若い二人は郵便局の窓口を通して出会うことになる。一人息子は郵便局に勤めていたのである。最初は誘惑のつもりでいたけれども、やがて自分のような身分のものと付き合うべきではないと姉さん気分で諭すようになる。しかし愛しさは合い積もって駆け落ちの仕儀となる。
さてどうすべきか。鴈次郎は駆け落ちなどと云う非常手段に出た息子を、やはり鳶は鷹を生まなかった、と自嘲する。母親はきっと帰って来るはずだと云う。そうしてその通りになる。若い二人、所持金も少ないから、そう長くは外の宿に泊まっていることもできないのである。

 一人息子は踊り子を連れて、母の許しを請うために帰宅したのであった。そこには折よく鴈次郎が待ち構えていて、遂に母親は彼が叔父さんではなく本当の父親であることを明らかにする。息子は多分そういうことだろうと思っていたと驚いた様子もない。鴈次郎は息子の後ろで陰になっている踊り子を見つけるなり顔を平手打ちし、恩知らずと犬畜生にも劣るもののように嘲る。遂に感情的になった息子は父親を跳ね飛ばし、自分の都合の良い時に父親だと名乗られても困るのだ、こんな身勝手な父親などいるものだろうか、さっさとこの家から出ていって欲しいと強弁する。母親は必死に、自らの身分を隠し恥じながら渡世稼業を続け、如何に長年月に渡って一家を支え続けてきた父親の隠され秘められた努力を思いやってくれと懇願するのだが、興奮の極みに達したした息子は聴く耳を持たないかのようである。

 すでにこのとき、一坐の解散は決定していた。父親はこの地を去る前に今一度母と息子が住む家を見るために訪れたのだった。そしてこの破局
 話の始終を聴いていた踊り子はすべての事情を理解し、いまは再起のために鴈次郎に自分を連れていくようにと願う。恩義に報いる封建的な道徳の底に流れている人間の至純さを認めて、鴈次郎はこの娘が息子を託するに足る存在であることを認める。いまは朗らかな気持ちで家を去ることが出来る。彼は自分に言い聞かせる、たしかに今さら父親だと云う名のりは身勝手と云われても仕方がないことだろう。今まで通りの遠くにいる叔父さんのままでいいのだ、と。

 こうして鴈次郎演ずる座長はひとり再起を期して夜更けに駅の待合室に座る。そこには既に先客がいて、京マチ子演ずる女副座長の旅姿が執り成しを待っていた。
 男が煙草を口にくわえ、懐をまさぐるのだがマッチが見当たらない。目ざとくそれを見つけた女は男の前でマッチをするが、煙草の先端は容易には近づこうとはせず、一本目のマッチの火は 虚しく照明を落とした駅の待合のほの明かりの中に燃え尽きてしまう。
 そして二度。三度目も四度目もあると云う強い同意の意志を仄めかせながら灯されたか女芸人のか細い炎が男の煙草の先端に移されて、そして何時しか並んで座った格好二人は、今度は男の煙草から火を貰って自分も吸う。
 二人は手探りするように、語るともなく今後を語りあうところで映画は幕となる。

 もう、いまはこの世に存在しない旅芸人の生涯を描いた叙事詩のような映画である。カラー撮影も見事で京マチ子と和傘の組み合わせが際立って美しい。小津と云うよりもむしろ市川崑の映像美を思わせるものがある。
 侘び寂た日本の港町のモノトーンの沈んだ色調が杉村春子のものだとすれば、沈んだえんじ色にくすんだような和傘、村芝居の興行を象徴する風にはためく幟や朱色の垂れ幕の鮮やかな色調は至極の日本美を代表する京マチ子のものである。色彩をめぐる工夫の中にも、二人の大女優、杉村春子京マチ子の対比が、日常と非日常、堅気の世界と旅芸人の世界、大地に根差した安定した世界と浮遊する浮き草のような世界の対比とが、小津の固有な色彩論を通して象徴的に描かれる。見事というほかはない。
 しかし一番際立っているのは、もはや色恋沙汰などは卒業した波乱多き男の、その田舎源氏の彼が晩年近くに見せた息子に寄せる至純の姿を演じて見せた鴈次郎の存在だろうか。なぜなら根なしの浮き草の民が時を超えて、永劫に願った願望、民族の宿願とでも云えるものが、そろそろ年貢の納め時を意識し始めた残照の遊び人の姿に重ねて描かれてあるからである。

 小津安二郎はどうして結婚もしないのに、結婚前の女性の心理をあれほど初々しくも生き生きと描くことがかって出来たのだろうか。家庭を持ったことが一度もないのに、男親の冬枯れのような哀れさをかくも見事に、かくも叙情豊かに描くことが出来たのだろうか。
 無論、鴈次郎の洒脱な演技力の賜物ではあろう。杉村春子演じる如何にも古女房然としたしみじみとした渋みのある情感溢れる演技も、目立たぬ形で映画の中で通奏低音のように堅気の世界の存在感と云うものの確かさを伝える。そして旅芸人の哀れさは、京マチ子をはじめとする座員の一人一人が明日の見えない頼りないこの世の寂しさ儚さを演じていて、やはりこれは失われた日本の、滅びつつある旅芸人の記録だと思わせるのである。

 旅芸人について一番印象的な場面を一つと云われるならば、祖父母に連れられた幼い子供たちの姿である。旅芸人の子供たちは学校に通うこともなく一座とともに移動したものなのだろう。祖父母となぜ子供たちだけなのか、映画は描かない。
 一座が解散することになって、酒を酌み交わしながら座長が今後の身の振り方を一人ずつ聞いていく場面がある。この祖父の番になって、いたたまれなくなって彼は座を中座してしまう。一坐の今生の別れが哀しくて、泣き顔を見られたくなって席を立ったのだろう、と云うことにしてしまう。そんな美しい話ではないのである。
 足早に階段を降りて土間の縁近くにしゃがみこんだ彼を追ってきた孫が理解できなくて何度も声をかける。そのうち事情が容易ならぬことであることを子供なりに理解したか、造り泣きのような泣き方をしてそのぎこちなさが、ほかには術もない旅芸人一座の哀れさが際立つ場面であった。一人一人が自立せよと云われても、生きる術もないものたちもいたのである。

 浮草、と云う題名の由来、それは明らかだろう。かって高峰秀子は自分の映画人生を語るに、わたしの渡世日記、とした。旅芸人の人生を語る、オールキャストの哀歓は、たぶん小津の映画人生そのものへの惜別を述べたものだろう。