アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『ヰタ・セクスアリス』、森鷗外の青春 『ヰタ・セクスアリス』、森鷗外の青春 アリアドネ・アーカイブスより

ヰタ・セクスアリス』、森鷗外の青春
2015-06-07 21:37:42
テーマ:文学と思想

 

・ 鷗外の『ヰタ・セクスアリス』を久々に読む。二十歳の時に読んだ読後感とほとんで変わらないのだが、ほのぼのとした懐かしさを新たにする。広義の意味でのポルノグラフィに該当すると思われるのだが、清新な泉に出会ったような清涼な読後感を与える。
 軍医総監にして明治を象徴する高級官僚かつ武断的知識人、反面多言語を操るラテン的な感性をも隠さない国際色豊かな文豪でもある森鷗外の、思春期、青年期に於ける赤裸々な性的諸経験を描いているにも関わらず、抑制された古典的ともアポロン的とも言われる文体の硬質な透明さからくるのか、凡そ欲望とか生の横溢とかいう現象であるよりは、性に対する寂寞とも寂寥とも云える哀切な思いが揺曳し、容易には解消できない出来栄えなのである。性の経験を語ることが同時に生や世の経験を語ることであり、それに対応する処世訓としての制や済であり、生の経験を超えた聖なるものの経験でもあり得るところに本書の特徴があると云えようか。本書が寂寞や寂寥の印象を与えるのは、鷗外が自然主義や欧米の新思潮に対して、性を語ることはそれなりの事でしかないのであると云う認識もさりながら、生や聖を遂には取り逃がしてしまう鷗外の生活者としての寂然たる思いや虚しさや儚さが通底しているためであろう。
 本書を、わたしはトーマス・マンの『トニオ・グレーゲル』ではないかと思っている。性を描かないナイーヴの書と思われるマンの小説と似ていると思われる。直接の契機としては自然主義や明治の新思潮に対する反措定として書かれたとされるが、――いみじくも「非政治的人間の考察」と云う姿勢は共通していたと思われるが――描かれた結果としてみれば、青春の哀惜の書なのである。あえて言うならば、『ベニスに死す』を付け加えても良い。青春のうつろいである美少年タジオに手びかれて
大いなる死の象徴であるアドリアの蒼い海に導かれる厚化粧の老人こそ、文豪のデスマスク、林太郎森鷗外がが曳きづった青春の亡骸(なきがら)に他ならなかった。

 一人の人間の人生を、あえて一本の導線として、説明しうるに足る横糸として選ぶとするならば、性的なものとして現したら十全に示しうるものとなるであろうか。鴎外は、自らの自叙伝的事実を纏綿と過去を点呼する形で呼び戻しながら、ほぼドイツ留学に至るまでの自らの二十五年間の履歴を披露した。
 ここで鷗外が特に言いたいのは、性的なものと性欲的なものとは違うということ、より以上に性的なものと性器的なものとは異なると云うことである。
 確かに20世紀の新思潮は、人間とは経済的動物であり性的存在であることを明らかにした。結果的に人間をありのままに、ザッハリッヒに描こうとするならば、欲望的な存在として描くことなしにはあり得ないとまでされたのである。戦後の日本文学が性的な表現に満ちているのも、いまだに鷗外時代以来の尾びれ背びれを引きずっているかのようである。人間存在を唯物的の理由のみによって説明するのは間違ってはいないだろうけれれども、それのみでは尽くされないものがあるに違いない。それが、――例えば、日本近代史に登場する「恋愛」だったのである。
 
 性的なものを描きながら性描写が無いと云うのも本書の特色だが、それは明治と云う時代の制約だけの問題にとどまらない。森鴎外は、性的と云うことをここでは愛と同じ意味で用いており、明治のような極端に価値が物質化の傾向を見せ始めた世俗的な世界のなかで、様々制約を課せられながら、愛が愛と名付けられるよりも前に早咲きの桜と散っていく姿を描きととどめている。
 愛が成立するための諸条件は様々にあるけれども、金銭、社会的身分、教養や素養、美意識や感受性のほかにも、例えば愛の失われやすさや壊れやすさを、性欲的なものとの結びつきの中にも求めている。戦後日本文学の常識とは根本的に異なったものだと云わなければならない。

 本書の中には美しいエピソードや場面が幾つかあるが、その中でも一番好きなのは、宴会に呼ばれて「きんとん」を所望した先輩の話である。
「『あなたはなにがいちばんお好き』
 『きんとんがうまい』
 生真面目な返詞である。生年二十三歳の堂々たる美丈夫の返詞としては、不思議ではないか。今日の謝恩会に出る卒業生の中には、捜してもこんなのがいないだけはたしかである。頭が異様に冷やかになっていた僕は、間が悪いようなおかしいような心持がした。
 『そう』
 優しい声を残して小磯は席を立った。僕は一種の興味を持って、この出来事の成行きをみている。しばらくして小磯はかなり大きな丼を持って来て、児島の前に置いた。それはきんとんであった。
 児島は、宴会の終わるまで、きんとんを食う。小磯はその前にきちんと座って、きんとんの栗が一つ一つ児島の美しい唇の奥に隠れていくのを眺めていた。
 僕は小磯がために、児島のなるたけたくさんのきんとんを、なるたけゆっくり食わんことを願って、黙って先へ帰った。」(本文より)
 
 美しいものが、反って愛や人情を金銭的に両替し、勘定高く収支を決算しなければならないような芸者や売笑婦たちの世界にこそ成立することの不思議さを描いたのは、鏡花や荷風である。色恋に現を抜かすなどと云うことがイメージとしては湧きにくい鷗外にしても、短編『じいさんばあさん』、そして『鴈』や『渋江抽斎』に描いているように、その生涯を貫いた瑞々しい感性は、目には見えないけれども清冽な泉の如く、地下鉱脈をこんこんと鮮やかに流れていたのである。

 今回、この場面に注目するとともに、主人公金井湛(かないしずか)が、初めてお見合いに臨むユーモラスな場面に注目した。
 お見合いと云うのも、さる華族のご令嬢とのお見合いの場面なのであるが、身分違いなことも、当時の明治期「学士様」の利用価値、社会的価値、世間的尊敬を考えるとあり得ないことでもなかったのだろう。
 当人は傍から薦められるままに、義理で断り切れぬままに、先方のお屋敷に出向くのだが、お見合いと云うものを一度見てみたいと云う本人の勉学的理由、社会的観察の理由としても挙げている。さて、向こうは比べるもない大身であるからぎこちなく始まった同座の席も、何を食べたいかと問われて、金井は「そばがき」を御馳走になりたいと云う。これで瞬時に座が和んで一座談笑がさざ波のように広がる。蕎麦掻の味覚が語り手の純朴さを語らしめて、この日の目的があってもなくてもよいではいかと思わせる素晴らしい一日の終わりになるのである。
 結局、縁談はまとまらなかったのだが、この場面が例の「きんとん」の場面のバリエーションであることに気がついた。若き鷗外は愛の風景を傍目に見るだけで羨望と同情に堪ええないのであった。その絵のような風景に准えて、少しも似ていないけれども、きんとんにかえて蕎麦掻の風景を演じてみた、と云う無意識の発現だっただろうと思う。

 トニオ・グレーゲルのような半ば羨望を籠めて、過ぎ去った青春への哀惜を籠めてこの場面が描かれたことは間違いない。なぜならこの場面の少し前で金井湛は、性的なものと性欲的なものとの違いを学び、あれほどセクシャアルな物事を神秘めかして考えていた自らの生き方や所感の幻想性を反省するのだが、実際はその違いを知ったとき、まるで禁断の果実を知った味わいのように、性的なものは、単に憧憬としてすらすり抜けて行ってしまったことにすら気がつかないのであった。『ヰタ・セクスアリス』のイロニーはここに極まる。

 金井湛は、あるいはそうなったかも知れない性欲的なものに引き摺られる動意を、飼いならされることのない内面の虎として、対面し続けた禁欲と緊張を半ば自負心にかまけてか、語る。性的なもの、すなわち愛とは、内面の虎とどう対峙するか、という問題ではなかったはずであるのに!

 金井湛が童貞を失う場面もついでに書いておこう。これはあるいは鷗外の理想化の羅紗が架かっているので文字通り受け取ったのでは危険かもしれない。
「 そのとき僕の後ろにしていた襖がすうとあいて、女が出て、行燈のそばに立った。芝居で見たおいらんのように、大きな髷を結って、大きな簪をさして、赤いところのあるたくさんある胴抜きの裾をひいている。目鼻だちのいい白い顔が小さく見える。例の中年増がついて来て座布団を直すと、そこへすわった。そして黙って笑顔をして僕を見ている。僕は黙って真面目な顔をして女を見ている。
 中年増は僕の茶を飲んだ茶碗に目をつけた。
 『あたなこの土瓶のをあがったのですか』
 『うむ、飲んだ』
 『まあ』
 中年増は変な顔をして女を見ると、女が今度はあざやかに笑った。白い細かい歯が、行燈の明かりできらめいた。中年増が僕に問うた。
 『どんな味がしましたか』
 『うまかった』
 中年増と女はふとふたたび目を見合わせた。女がふたたびあざやかに笑った。歯がふたたび光った。土瓶の中のはお茶ではなかったとみえる。
(中略)
 中年増が女の御道具を撮って片づけた。それから立って、黒塗りの箪笥から裃を出して女に着せた。派手な竪縞のお召縮緬に紫繻子の襟が掛けてある。この中年増がいわゆる番新というのであろう。女は黙って手を通す。珍しくほそい白い手であった。番新がこういった。
 『あなたもう遅うございますから、ちとあちらへ』
 『寝るのか』
 『はい』
 『おれは寝なくともいい』
 番新と女はみたび目を見合わせた。女がみたびあざやかに笑った。歯がみたび光った。」(本文)

金井湛は性的な経験が何事でもなかったかのように言う。あるいは鷗外もそう思っていたのかもしれない。しかし性的にかかわることが何事でもなかったのではなく、鷗外自身が何事もない人間に変わってしまったのである。ひとは現実の変化や変遷を知るほどには自らを知らない。森鴎外の青春は、このあと生じた留学時代によって中断されてしまう。
 こうした性愛観を抱いた人間がその後どうなったか。帰国後の現実が例えば『半日』である。『半日』などは『ヰタ・セクスアリス』に描かれた青年と同一の人物かといぶかわれるほどその変貌ぶりはあざやかである。『半日』は夫婦生活のその無惨な反響だろう。夫婦生活を描いたものと云うより、近代の理念を理解したわけでもなく、過ぎ去った封建的美徳をも見失った明治期のサイボーグめいた現実に対する暗澹たる反映と云ったらよいだろうか。

 青年森鷗外の自伝史の整理すれば、『ヰタ・セクスアリス』と東大医学部時代の後にドイツ留学が来る。これは小説だからそのまま信用することはできないが、『舞姫』などに描かれた青年は洋行帰りの保守主義者として語られることになる人物の俗物性、俗物性を超えて偽善とか卑劣とか云う概念に近いものがある。虐げられた女性をみると同情を禁じ得ないと云うのはいいのである。それを一過性のセンチメンタリズムとまでは言わないけれども、出世の為に切り捨てると云う決断もいいのである。この青年に救いがないのは自らを責めず他人のせいにしたことである。かかる系譜の人物像は例えば『鴈』などに完成した姿を見出すことになるのだろう。
 『うたかたの記』、『文づかい』などは清冽なる処女性の理念が迸る泉のように高く超越界にまで吹き上げた、嫋やかというような日本的な理念の反対側にある、戦闘的なアマゾネスのような理念である。女性性の純粋さが極まるところ阿修羅のような戦闘性としてしか表現できないと云う意味なのだろうか。純粋性が極まるところ性差を超えた中性的なものでしか表現できないのだろうか。これは森鷗外の実現できなかった儚い近代の理念の思い出だといってよいだろう。遠ざかる森鷗外の青春――
「姫の姿はその間にまじり、次第に遠ざかりゆきて、おりおり人の肩のすきまに見ゆる、きょうの晴着の水いろのみぞ名残なりける。」(『文づかい』の末文)

 青春とはよく言ったものである、水いろとは告別のイメージ!