アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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フェリーニの『甘い生活』1959—-映画製作後59年目の感想 アリアドネ・アーカイブスより

フェリーニの『甘い生活』1959—-映画製作後59年目の感想
2018-07-01 18:37:22
テーマ:映画と演劇


 早いもので、この映画、制作完成から五十九年を閲していることになる。古びることなく、新しい!傑作と呼ばれる所以だろう。

 

 『甘い生活』を久しぶりに映画館の大きなスクリーンで観る。アニタエヴァーグが活躍する複数の場面の他はほとんど忘れていたので、自分でも驚いた。最後のラストシーンにきて、かって行きずりに会話を交わしたことのある少女と、押し寄せる潮騒の音に遮られて、川を隔てて対話をする場面があるが、声が届かないのでマイムで伝えようとするのだが、もどかしいほどうまくいかない、この場面にきて、鮮やかの程映画の全体を思い出した。

 この映画は、言われるほどの傑作なのだろうか。
 物語の筋と云うほどのものはなく、短いエピソードの、互いに関連を欠いた、モンタージュのような映像の組み合わせである。時系列の物語の展開と云う方法をとらずに、エピソードが固有に持つ、コントラストや異化効果のみによって、三時間の大作を汲み上げたと云う点が当時高い評価を受けた点だろう。

 簡単にエピソード群の主なるものを紹介し、少々の解説を加えておく。
 ⑴ ヘリコプターがローマ郊外の水道橋が見える場所からヴァチカンに、キリスト像を吊り下げて運ぶ場面。この場面が冒頭におかれている意味は、この映画が魂の救済の物語であることを語っている。
 ⑵ 宗教的なモチーフに連なるものとしては、映画の半ばほどに出てくる、現代の奇跡現象を廻る、大掛かりなセットの場面が出てくる。現代の少女と少年が生けるマリア様の降臨された姿を見たと云うのだが、これが大きく取り上げられた関係で、奇跡を期待して多くの病を持つもの達とその家族が押し寄せ、現場は報道機関の記者やカメラマンも含めて大混雑である。催しそのものは途中で大雨に見舞われて、弱り切った病者たちのなかから死者が出た模様で、翌日は野外で行われた追悼のお葬式の場面が描かれている。奇跡を期待する馬鹿騒ぎを描いて、その虚しさ、愚かしさが際立つのは、その場面の直前に、例のアニタエヴァーグの来イタリアからトレヴィの泉の名シーンに至る場面が純粋に美しいからである。次にその話をしよう。
⑶ ハリウッド女優の来イタリア、マリリン・モンローを念頭に於いたアニタエヴァーグ演じるハリウッド女優のエピソードが美しいのは、映画界と云う世俗の極まり切った場所で、思いもかけず現代の天使と遭遇してしまうと云う意外さにある。特にヴァチカンの鐘楼の廻り階段を息を切らせることもなく、一気に上り詰める彼女の生命の躍動が素晴らしい。追いついた新聞記者のマストロヤンニは、広大な円形の広場を見下ろす鐘楼のベランダに並んで立ちながら女優との遭遇の意義を理解する。彼女を取り巻くイタリアのマスコミ界の混乱模様を描きながら、なぜかマストロヤンニが気に入られてプライヴェートに夜のローマを彷徨う二人の場面が続く。結局、最初は大きな人形と思っていた金髪の大女に、マストロヤンニは「結局、君は誰なんだ?」と云う存在の根幹に係る問題を感ずるまでになる。その夜の方向の果てが、あの有名な夜明け前のトレヴィの泉のなかを酔いのまわった体で大胆に水遊びに昂じる場面である。マストロヤンニは共感して、「君は正しい」と云う。何が正しいのかは彼にも観客にも分からないだろう。この場面が、噴水と水と云う媒体をとおして、ヨハネによるイエスの水の洗礼のパロディであることを読み取ることが、この映画を理解する鍵となる。
 ハリウッド肉体派女優の天使性を描いた場面に続いて、再び俗なるものの象徴としてローマの上流階級の宴会の風景や夜の町のキャバレーやクラブの風景た対比的に描かれる。また聖なるものと退避する意味ではもう一つの要素、彼の妻との地を這うような泥臭い愛欲の生活の救いのなさもまた執拗に描かれる。
⑶ 俗なるものの名場面は、イタリア貴族の古い館を舞台とした降霊術をアトラクションに持つ宴会の場面と、最後に出てくる海辺の現代風の別荘の一室で行われた乱痴気騒ぎだろう。世俗の場面としては、この他にも先に述べた妻の心中劇であるとか、痴話めいた夫婦げんかの終わりのない場面がある。
⑷ やや異質なのは、聖なるものの系統に属するのかどうか曖昧だが、マストロヤンニの友人家族をめぐる、規範的で、理想的な家族パーティを描いたエピソードが出てくる。ある意味では、世俗生活に埋没しそうなヒーローに助言することも可能な理想形の人物として紹介されるのだが、最後の方に来ると、かれは二人の愛する子供たちを道ずれにして自殺を興してしまう。彼に唯一の希望を与えるかと思われたこの一家の崩壊は、ヒーローから生きるためのあらゆる希望を奪う。
 最期の場面は、別荘での乱痴気パーティーが終わって自暴自棄になった主人公たちは夜明けの海を見に行くのだが、そこには今にも引き上げられそうとしている巨大エイの半ば腐りかけた姿があった。死んでどんよりとした二つの眼に見つめられて、そこに荒廃した自分たちの姿を見てしまう。救いを希求しながらも、結局、だらだらと惰性に駆られるように悪魔たちの誘惑に屈するほかはなかった、というお話なのである。
 そんな彼でも見捨ててはいけないとばかり、エンドシーンの後にもう一つのエンドシーンを付け加えて、彼の救いがたさを描こうとする。余ほど前、生き方を改めようと海辺の小屋に場所を求めて小説を書こうとしていた頃、書き悩んでウエイトレスの少女に音楽が大きすぎると絡んでしまう場面があった。結局自分の独りよがりを反省して彼は少女に出生地を聴いてみる。ペルージャと少女は応えるのだが、かれはふと少女の面影にペルージャのある教会にあった聖母像か天使像の面影を思い出す。遊び心もあってその美術品のポーズを横顔に映してみるのだが、この時はこれだけの話に終わる。成熟した男を演じているマストロヤンニが少女の性的な関心を及ぼすわけがない。彼が今まで付き合ってきたのは、何れもお金持ちの成熟した女性ばかりである。そうした彼の女性遍歴からは異質な少女の像が、最後の場面で川の向こう側から話しかけてくる。先にも書いたように、荒れた海の潮騒の音にかき消されて声は届かない。それでもどかしそうにマイムで話そうとするのだがお互いに伝わらない意思疎通の失望の表情だけがスクリーン上を流れていく。
 つまりこの場面は、天使の呼びかけも彼には資格がないために聴きとることができなかった、という寓意なのである。芥川の『蜘蛛の糸』のお釈迦様のように、悲哀と諦めを少女の微笑みの上に浮かばせて三時間に及ぶこの映画は終わっている。