アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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三島と川端の死生観 アリアドネ・アーカイブスより

三島と川端の死生観

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 三島由紀夫川端康成は生前は親しい師弟関係にありながら、二人が日本人として歩んだ霊界への奇跡は対蹠的なものがあります。
 青年の三島は、若い頃より天才として、時代の寵児として、もて囃されてきました。何もかにもが自由で、自然に出来てしまうので、その万能感がかえって不如意感を募らせたかのようです。
 不如意感は次第に戦後という時代に対する不信感へと変化していきました。『英霊の声』を書く頃から急旋回を見せ、最後は市谷の模擬クーデターの主役として散りました。
 彼の行為が実効性よりも象徴性が高いものであったと云う意味で、2・26や5・15よりも、明治初頭の神風連の事件に似ていると思います。
 三島がなにをやりたかったか、――どなたかが指摘されていたことですが最後の四部作『豊饒の海』の続きを、現実に演じてみることで、三島文学の体系のなかに平岡 公威(ひらおか きみたけ)を象嵌として入れ込むことでした。こうして工芸品としての彼の生涯は完結する、と云ったら確かに言い過ぎになるでしょうか。
 成功と多幸感に彩られた生前の三島の生涯は、恵まれているがゆえに、翳りの部分を生みました。彼はある日を境に陰りの部分にこそ自分自身の生はあると信じたかのようです。荒魂と和魂の比重が次第に逆転して行って、最後は魔王となり果てました。成仏を永遠に拒否すると云う姿勢を強く感じます。なぜこうなったのでしょうか。――
 2・26や5・15の所謂英霊たちの背後には膨大な数の、先の大戦による戦没者の群像がありました。彼らの魂は未だに祖国の山河に帰ることなく彷徨っていると彼には思えたのではないかと思われます。彼の心情はそれだけを取り上げれば右翼的ですが、荒魂のさすらいを戦略的に、或いは営利的に利用しよとする保守的な輩の発想とはまるで違うものが感じられます。彼らに祈ってもらうのは、殆ど冒涜に近い行為ともし彼が生きていたら述懐したのではないでしょうか。
 彼がなそうとしたのは、故郷の山河に未だ帰り着かない英霊たちの荒魂を自らの肉体に受託し、荒魂を引き請けることをとおして、彼らを和魂として転生させる、受難の行為であったと、一面、考えられるのです。
 
 川端康成の生涯は、欠損家族に育った彼は、功成り名を成した後に於いても、人間以下の世界を生きていると彼自身は思っていたのではないでしょうか。
 ノーベル賞の受賞と云う、類例のない日本人としては最高の高みにありながら、彼は、誰にでも可能な平凡人の在り方が欠けていました。なぜなら平凡人としての素直な感情を回復すると云うストーリーが、ほとんど処女作のような位置にある『伊豆の踊子』のテーマでありましたから。
 川端の死生観の変化は、文学とは違った場面で生じました。これも誰かが言っていることですが、彼の養子と養女に孫の誕生を見たとき、かれは永遠を見ました。蒼白き相貌の「永遠」を観てしまったのです。
 こうして彼が生涯問い続けた問題はまるでバネが弾ける様に、自然に解かれほどかれたのです。彼は感謝と至福感のなかで、日本人には最も異質な形態である、和魂としての死を自覚的な方法で選ぶのです。平凡人としての死を選び帰結させると云う凡庸性の極致であるように見せかけながら、第三者の眼にはそれがある種、異様に映じたのも無理はないでしょう。
 彼は、三島とは民族の道のりを逆方向から歩んだことになります。生前は荒魂として彷徨い歩いたほの白き草葉の道筋が、最後には、劇的な形で和魂へと変貌するのです。
 
 三島の死は異様で、及びもつかぬ不吉さを感じさせます。しかしそれ以上に川端の死は不可解で、理解を絶するものがあります。人は至福と多幸感につつまれたとき、生涯がとるに足りないと思えるほどの、瞬間を迎えるのでしょうか。
 もし、人生にやり残したことが殆どなく、一切が程々に成就されていると云う気持ちに至るなら、あるいは確かに死は怖いものではない、という気持ちは少し、分かるような気が最近はいたします。
 
 三島と川端の冥福を祈ります。
 
三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年(大正14年)1月14日 - 1970年(昭和45年)11月25日)
川端 康成かわばた やすなり、1899年(明治32年)6月14日 - 1972年(昭和47年)4月16日)