アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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夜の会話 アリアドネ・アーカイブスより

夜の会話

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 静まり返ったキャンパスの、今は博物館になっている旧チャペル前にそれは咲いていました。しめやかで幻想的です、その花は。・・・ゆり。
 
 
 
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 須賀さんの”コルシア書店の仲間たち”の中に、”夜の会話”と云うのがあります。須賀さんが経験したミラノの知識人‐上流階級の風景です。60年代、いまだ時代が熱かったころのお話です。
 
 若き日の須賀さんは生き方が定まらず、留学生として日本とヨーロッパとを往復する中途半端なあり方に耐えながら、やがてカトリック左派などと云う、聖堂でインターナショナルをも歌うようなグループと深いつながりを持つ一方で、途方もないような上流階級や貴族階級との接点をも持っていましたから、不思議な人であるとは言えると思うのです。読んでいても気にならないのは、須賀さんの文章が自然だからです。
 
 貧しさというものに拘りがなく、それでいてハイソサエティの生き方にも拘りがありませんでした。もともと聖フランシスコの生き方を理想としたような人でしたし、事実、日本に帰国してからはエマウス運動と云う、――表現はちょっと悪いのですが、バタ屋のような運動を、若者たちと泊まり込みでしてた人のようなのですから、ミラノで見せた一面、――上流階級と付き合う時の自然さが、言われてみれば、改めて不思議に感じられるのですね。
 
 読者は、須賀さんの手引きで、全く未知のヨーロッパの階級社会の裏側から案内されます、この視角が日本の読書界にとっては新鮮でした。旅人やディスカバリーの視点で案内されることには慣れているのですが、まるで勝手口からいきなり内輪のパーティーの、やや時代離れした話題へと導かれるのです。須賀さんは自分では背も低く、地味な東洋人だったから彼らの抵抗感がなかったのだろうと謙虚に書いていますが、須賀さんははっきり書いていませんが一応全国規模の企業創立者にして経営者の一族の令嬢であることは知っておいていいでしょう。こう言う書き方をすると反発を感じられる方もいらっしゃるかも知れませんが、教養やステイタスがどうこういう以前の生まれや育ち、生き方が洗練されていたのです。
 
 話題が逸れてしまいましたが、その”夜の会話”の中に、ラウラという印象的な女性が出てまいります。控え目で、ものしりの夫を尊敬していて、それでいて自分なりの意見はしっかりと持っていて、それで何となく話が佳境にはいると、みんながラウラの意見を聴いてみたいと思うような、そんな女性です。
 
 ”話しおわるとき、彼女はいつも、そう、私は思うけど、としめくくり、それから、はずかしそうに笑った。てれたような、声をださないで肩だけをふるわせるあの笑を彼女が笑うと、みんなの緊張がいっぺんに解け、なんとなくそれでいいと思ってしまう。”(全集P263)
 
 そんなラウラが妹さんを亡くして半年ほども集まりに来なくなった事がありました。須賀さんは差し出がましいことはしないで、お悔やみの挨拶を云えたかどうか自分でも判然としないまま、ラウラが一人過ごした半年の時間の経過を偲び、それを”透徹した哀しみ”とだけ表現しています。
 
 彼女は ”時間をかけてひとり哀しんでいた”(前掲書)
 
 
 時を紡ぐ、癒しの時間の滴りが砂時計のように時の陰りを濾過していく様子を須賀さんは的確に捉えています。一個の他なる死が他者の上にもたらした痕跡について、何が言えたであろう。肉親の死について時にあれほど冷徹でもありえた彼女の叙述が湿りを帯びているのは、夫や仲間達の多くのものの死を経験し、癒すに足りえたかはともかく、ある程度の幅と質量とを持った時間が彼女の人生の上を雲のように流れ過ぎたからであろう。
 
 暗闇に浮かぶ百合の花は、そんな幽玄な思いに誘うのであった。
 
 あるいはその闇は、ペルージャナイチンゲールが鳴くという夏の夜の夜更かしの、須賀さんの若い弾んだ話し声を思い出させ、あるいは帰国後のついの住まいとなった中目黒は八幡神社の境内で聞いたという、梟のくぐもった声をも思い出させて、ひたすらに懐かしい。
 
 
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 ちなみに”夜の会話”とは、敬愛する現代イタリアの女流作家、ナタリア・ギンズブルグの”ある家族の会話”へのオマージュであり、エコーであったと私は思っています。
 
  ”ある家族の会話”は戦前・戦中の北イタリアの中核都市トリノに集う、大学教授の家族と、そこに集うたインテリたちのお話です。大戦末期のレジスタンス運動が遠く近く描かれます。私はこの作品を読むたびに漱石の”吾輩は猫である”を思い出すのですが、違うのは一家を切り盛りするギンズブルグ夫人が先のラウラのように理想化されているのです。 
 
 ナタリアの母と呼ばれたその人は、居間で癇癪を起こすギンズブルグ博士の姿をドアの陰に見ながら、娘の学友たちと密かに台所の一隅でプルーストを論じたりする自然さが天性のものとして備わっています。ナタリア自身が後年イタリアにおける最初のプルーストの紹介者にして現代を代表する揺るぎない作家になるわけですから、今は忘却の彼方に消え去ったトリノの、ある家庭で交わされた会話が聴いたことはないのに、何か途方もない、ありうべくもない奇跡の会話であったかのような感慨にとらわれるのです。
 
 
 
 これはまた別の日に訪れたときの風景です。
 
 
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 アガパンサスが咲いていました。
 
 
 
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 キキョウが風にそよいでいました。
 
 
 
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