人性の持ち時間と、世界経験と身体性理解の閾値――ある趣味論から アリアドネ・アーカイブスより
大衆的多数派平均値の市民的性格様式が勤め人風になるなるなかで、これを基準に一般論風に拡大し、さも何事かを語り得たかのように論じることの是非はともかく、――
定年後の持ち時間の拡大に伴ってこれからの老齢期の時間の利用の仕方などの論議するなかで、趣味を活用するのだとかこれから始めるのだとかいう生きがい論風の各種論議がありますが、現役時代に身に付かなかった趣味など何ほどののものだろうかと云う思いがわたくしの側にはあります。それはさておき、人生の繁忙期に紛れて聴こえていなかった内面からの要求に目覚める、と云う感激的なお話も一方では聞いたことがあります。潜在的にある自分自身に気づかずにいたというわけですね。こういうことはあってよいのです、人生は多様ですから。何れの場合であるにせよ云えるのは、遣らないよりは遣る方がましだ、と云うことぐらいの印象でしょうか。
さて趣味のお話をしようとすると、趣味とは他人と競うものではないし、グループで遣るから愉しいし長続きもするのだと云うことは一般的な傾向としては云えるのかもしれませんが、趣味にも様々な形態変化があるにもかかわらず、最後は自分自身に向き合う態度、自分自身の問題だと云う気がします。つまり趣味にはひと際優れて卓越した境位に立つ必要はありませんが、自分でも納得できる閾値と云うものがあって、それはこれはこうと言葉で説明することは出来ないのですが、趣味の目安をこの閾値のようなものを自分自身の中に感じられるようになれば、それはそれで一応辞めてもいいのかなと思うようにしています。唐突に辞めてもいいのではないかと云うお話をしましたが、これが趣味に生きる道と所謂マニアの道との違いになるのではないかと感じていますが。人生、ひとりの人間があれもこれも遣るわけにはいかないので、それを区切りとして他の趣味や活動に移行していくわけです。趣味を遍歴する、これがマニアの道との大きな違いになるのではないでしょうか。
これはさておき、――
趣味の閾値とは、熟達の度合いや習熟度とは別に、――人間の所作とは、人間と云うものが精神と肉体、心と身体と云う構成が示すように二元的になっているために、最初は趣味と云う当該の目標や対象領域への主体的な関心が熟練と熟達の度合いを遂げるに従って、精神と肉体、心と身体の間で相互に対話のようなものが交わされるようになります。人間とはまず最初は意欲する動物ですから、精神や心と云う主意主義的な動機が卓越してきますが、熟練度が大きくなるに従い、両者の間に平衡状態のようなものが出来てきます。これを仮に閾値であるとわたくしは定義しているのです。
さて、その閾値を通して趣味作用は学習や習い事の領域を超えて、身体や肉体を通して外部の世界との繋がりを意識するようになります。この境位で意識は、何ものかについての意識であることを止めて、内面と外界とを繋ぐ平衡感覚、つまり意識とは作用ではなく、構成や構図、構造の図柄であることを理解するようになります。意識が構造や図柄であると云う了解を通じて、意識は自らを内面と外界との間を繋ぐ扇の要のような位置にある自分自身を見出すようにjなるのです。