輝ける唯物論――イコンと輝ける物質について アリアドネ・アーカイブスより
イコンとは何か?西南学院大学のイコンについての展示と講演会を聴いてはじめて内容が理解できました。ありがとうございました。
つまりイコンとは無名性が前提になければならず、制作者の存在や責任の所在の如何を示す芸術としての絵画や造形芸術であってはならないことが初めて了解されたのです。
しかしイコンとは一枚の制作された物質としての画像なりタブローです。その画像なりタブローが、汚染された物質性を、つまり偶像崇拝を如何に免れうるのか、・・・・・。
その答えがキリスト教圏にある、物質の聖化、と云う固有の考え方にあります。すなわち物質を神の名において聖別するのです。聖別された段階で「もの」は物質とは異なった様態に移行します。その場合の条件とは、制作物が無名性の原則に貫かれていること、です。従って聖なる画像に於いては、模写と云う行為はあり得ても製作者の名を冠することはないのです。
こうして聖化された画像を通じて礼拝する、と云う行為が可能になります。なぜなら、神そのものは見ることも聴くこともできない不可視の対象とされているからです。不可視の対象であるだけでなく、単にそれについて考えることも思惟することも想像することもできない対象なき対象とされているのです。
受肉の考え方を定式づけたものに、三位一体の考え方があります。神とキリストと聖霊は一体だ、と云うのです。難しい問題ですが、同時にこれが秘儀とされているゆえに、三位一体については語ってはならない、不文律の決まりがあるゆえに、いっそう理解を困難にしています。それで私も三位一体についてはこれ以上の言及を遠慮いたします。
そこで単に受肉、という考え方に限定して考えますと、イコンの場合の単に模写すると云う無記名の行為を超えて、主体的な契機が感じられます。受肉論に於いては、静態的な写実・模倣と云う段階を超えて固有な信仰の在り方に至る道筋が用意されていた、と云うことが感じられます。
固有なものへの存在回帰はそのまま偶像崇拝の過誤に陥るのだろうか、それが私の疑問点です。
いったいに於いて、ルターが「私はここに立つ!」と宣言したとき、彼は無名性のものとして任意の我として立ったのであろうか、かけがえのない固有な在り方をする我として立ったのであろうか。
神の眼前に我々は無として立つ。しかし己を虚しくしてひたすら無名性のものとして立つこともあり得れば、実存の固有な在り方を通じて、名を欲するものとして無名性に至ることも可能であると考える。
イコンについて考える場合にもう一つ考えておきたいのは、物質の聖化の考え方である。
この世にあるところのあるものは、神の祝福の元に聖化されて物質となるのであるか、それとも元来物質とは聖なる存在としてあったのに、人類史の経緯と共に頽落態として”物質”概念が誕生したのか。
どうも後者であるように思われる。物質やものとは天地開闢の初めに神の神意に名指されて誕生したのであるから最初は聖なるものであった。それが人類史の経緯と共に頽落し、その極限が近代自然科学に云う物質概念であり、人間の恣意によって利用のために供される任意に加工されるべきもの、すなわち死せる物質概念の誕生である。死せる物質こそ偶像崇拝の一形態ではなかったか。
であるから、イコンとか受肉と云う行為は聖化と云うよりも、再聖化とも云うべき行為でもあろうか。
再聖化とは、言い換えれば神の行為にならって、神のみ言葉のなかから”物質”を創造する、模倣の行為ではないのか。模倣とか模写は創造者への畏敬に基づく。
無からの創造と云う行為は、天地開闢のビックバンのカウントゼロの段階においても実際にはなく、言葉の揺籃のなかから生まれて来たのではなかったか。
無からの創造と云う行為を私は信じない。この点、仏教の関係者の方々の意見も聴きたいところである。
かって聖餐や秘儀が奉納されるべき空間は洞窟のように閉ざされていた。閉ざされていた壁にロマネスクの窓がある時期に穿たれ、天蓋もまた宇宙の星座を模写し模倣するかのように無限に拡散し無重力の空間を生み出した。それが輝ける物質の結晶としてのゴシック様式のステンドグラスでもある。そのとき物質は聖化されるべきものとしてではなく、聖なるものそのものとして輝いていたし、物質とは卑し気なるものなどではなく(死せる物質)、すでに聖なるものとして信仰の眼前に現前としてあったのではなかったか。
イコンは神の模像であったが、輝ける物質はもう一つのカソリックなりの建築的な応答のひとつであったと思われる。