アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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サルトル『嘔吐』を読む――永遠の戦後の青春の書 アリアドネ・アーカイブスより

サルトル『嘔吐』を読む――永遠の戦後の青春の書
2013-04-13 23:25:24
テーマ:文学と思想

・ 小説『嘔吐』のことは別に考えたいので、殆ど半世紀ぶりに読み返して感じたことを雑談ふうに書いておく。

 一番目は、有名なマロニエの樹の根元を見て考える「存在」の根源がどうやら執拗にぶり返す嘔吐の原因らいいと考える場面である。ここで云う嘔吐とは、事物や事象の背後に控える存在の外皮でありその切断面である。それはこの小説では明晰に説明されているとは言えないけれども、通常我々が自明に前提している日常性と云うものが、実は人々の口約束――難しく言えば共同主観的な意味文節的な作用によって支えられていると云う、今日でいえばよく流布されたの現象学的な知見の開陳である。
 今回私が感心したのはこの点ではなくて、事象や事物存在の外皮が破れるその切断面に見られる描写が、その文学的表現が実は、サルトルたちが未だ経験していない核兵器が人体に齎した影響の描写に実に酷似していた点である。それら二つは、不遜な表現を用いさせていただくならば、”むかつき嘔吐をもよおされる”ような何かがあった。例えば――

”母親は、肉が少しふくれ、亀裂が生じ、半ば口の開くのを見る。そして亀裂の奥から第三の目、笑っている目が現れるだろう。・・・中略・・・鏡に近寄って口をあけると、舌が生きた巨大な百足になっていて、それが足をからませ、口蓋を削っているのをみるだろう。それを吐き出したいと思うが、百足は体の一部になっていて、手でむしりとらねければなるまい。”(同書p193 )

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子供の頭です!

・ この作品が発表されたのは原爆投下以前であるから、サルトルの文学表現が予言性を持っていたと云うことを言いたいのではない。そんなことを誇っても何もなりはしない。20世紀と云う時代が、こうした未曽有の経験を表現できるような特異な感受性を既に育てていた、と云うことを言いたいのである。どのような残虐行為もそれを支える個的な感受性を超えた、間-人類的な表現行為が熟成していないところでしか成り立ちえなかった。20世紀以降における特異性の固有な意味とは、自分たちの存在を何ら特異と感じない人たちのあり方である。

 二番目はこの小説のクライマックスである独学者が自らの秘められた性癖――少年愛――故に、社会から指弾され、殴打され、血を流しながら罵声のなかを退場する場面である。
 この場面を描くにサルトルが必ずしも自覚してはいなかったと思うが、参照されているのはイエスを見舞った「聖云剥奪」の場面である。なぜなら無残な場面であるけれども、今日から読めばそこにはこの小説随一とも云える崇高さが表現されているからである。たぶん主人公のアントワーヌ・ロカンタンとサルトルはこの解釈が気に入らないだろう。
 さらに重要なのは、聖云剥奪の場面を通して、積年の待望するがごときカタストロフィーを予感する生き方は、あの余りにも無抵抗であり過ぎた貨物列車のユダヤの灰色の群衆を思わせる。独学者の気弱な博愛主義がプチブルジョワジー道徳の冷酷な罠に嵌められて自滅していく姿は、20世紀の滅びの姿のユダヤ人をどうしても彷彿とさせてしまうのだ。
 これもサルトルの文学表現がアウシュヴィッツホロコーストについて予言性を持っていたと云うのを誇るのではなく、1930年代の共同主観的な大衆の感受性と云うものが共同幻想として、名作『嘔吐』のなかに無意識に、言外の言語的形象的表現と云う行為を通じて、克明に記録、刻印された、と云う点を評価すべきである。

 

 三番目は、かっての恋人アニーを通して語られる特権的瞬間なり完璧な瞬間と云うものについてである。人生はランダムに続く事象の同時並走なのであるから、その複雑な縞模様のなかに原因と結果の物語を作ることは単なる主観的な恣意的判断、物語やお伽噺の類に過ぎない、と云うことになる。アニーは一連の愛と放浪の生活を終わることで、アントワーヌ・ロカンタンは歴史上のある人物の伝記を書くことの断念を通じてそのような生き方と決別する。そのような生き方とは、ある種の幻想をひきずった青春との決別と云う意味である。今日に於いてもなおこの本が魅力的であるのは、この書が一篇の美しい青春の書、正確に言えば挫折の記録であるからにほかならない。
 アントワーヌ・ロカンタンは町の功労者、有名偉人を、その肖像や銅像を、またブールヴァ―ルや通りを遊歩する小市民たちの俗物性を嘲笑う。同時に独学者の安易な、センチメンタルなヒューマニズムをあざ笑う。しかし彼は勘違いしているのである。独学者が戦場の捕囚経験を通じて得たもの、彼が戦間期を通じて守ろうとしたのは、ロカンタンが一方的に非難するような安手の慣れ合い主義や同胞主義、所謂ヒユ―マニズムであるのではない。戦後的な知性は何にでも利己主義の痕跡を求めようとするのだが、彼らが誤解しているのはヒューマニズムとは自己憐憫の裏返された単なる自我主義の変形なのではない。近代主義的な静態的な語彙法によって言語と行為を区別して考える限り、世界はアントワーヌ・ロカンタンやサルトルの眼にはそのように見えるにすぎない、と云う認識論的な錯覚現象なのである。
 独学者が捕囚時代の体験として雨天体育場に押し込められた咽るような敗者の一体感を語るとき、それはセンチメンタリズムの一種なのではない。ヒューマニズムの言葉の破片なのでもない。”われら”がその時に確実に持った連帯感は集団的な幻想とばかりは言えない。こう云う場面では、言語や論理とは、外界の現実や行為と分離されてあるのではなく、言語や論理自身が同時に行為でもあり得るような、新しい言語学的な地平を前提しているのである。当然ながらアントワーヌ・ロカンタンも当時のジャン・ポール・サルトルもこうした新しい言語観には気付いてはいない。しかしこの場合も私たちの知見を誇るのではなく、これを言えるのは後代に生きる私たちの特権であるにすぎない、と云う点を弁えるべきである。

 四番目は、この小説で一番魅力的に描かれているアニーと云う名のヒロインの存在である。実在の人物をモデルにしているのだろうか。映画化をするとすればジャンヌ・モローに演じさせたいと思うがいかがだろうか。
 四年目の再開を通じて、ロカンタンもアニーも特権的な瞬間などはないこと完璧な瞬間はないことを了解し合う。しかし意気投合しないのは、理解のレベルが違うからである。ロカンタンの意識は存在論的な考察のレベルに過ぎない。体で生きてきたアニーの生理的・肉体的な認識とはレベルが異なるのである。アントワーヌ・ロカンタンとサルトルが永遠に理解しない点は、肉体もまた理性の高度の段階であると云う認識である。肉体が持つ身体的な知見とは精神―肉体、主観―客観の枠組みを超えた高次の知見である。単に”待っている”だけの認識人としての人には分かりっこないわ、と云うのが彼女の言い分である。

 この小説は物語の最後に、プルーストの高名な長編小説がそうであるように、認識の書として、小説家のアイデンティティを求める小説として長年読まれてきた。しかし結末を読むにおいても、なんらロカンタンは新たな認識に到達したわけではない。得たことは二点、――一つは存在が私たちの共同主観的な意味連関を離れてあると云う裸形の存在論の発見であり、もう一つは因果の連関を通じての物語やお伽噺はこの世には存在しないと云う、二ヒリズムである。ロカンタンが何か存在の彼方から射す光、存在の光の如きものを感じたとすれば、それは前言に違わぬ自己欺瞞の一形式であるにすぎない、と云うことになろう。
 むしろロカンタンもサルトルも気付かない変化が起きているのは図書館で殴打され罵倒される顔面から血を噴き出した独学者を庇うために行動する場面である。行動するサルトル?行動する知識人の後年の高貴な姿をまだこの当時のサルトルは意識しえないでいる。彼は後にこの行為の原点をアンガージュマンと名付けるであろう。さらにそれよりも興味深かったのおは、ホロ―コーストのような行為のお先棒を担ぐのは、心痛む表現であるが、子供たちであり、プチブル的な道徳観に固まった中年のヒステリックな叔母さんであり、”コルシカ人”のような被差別民ではないが社会の周辺部に位置する少数者であると云う点である。実際にはこの後本性を現したナチズムは彼らをとことん利用したのである。
 
 この小説の魅力は、そのような実存主義的なプロバガンダや言表行為を超えて、一方では同時代的歴史的検証者としての予言的な表現に於いて、他方では文学的表現としては、主人公ロカンタンや作者サルトルの単なる恣意や主観的な意図を超えて、今日に於いても古びることのない青春小説としてのある種の不易なものを表現しえている点である。今日に於いてもこの書は素晴らしい!

 

 わたしは読み終えて本を置く。枕元のランプが消灯後の空間を後光のような限られた円錐形の幻影として床の絨毯を鈍く照らしだす。力なく本をサイドテーブルの隅に押しやってわたしは再び記憶の彼方にそれを聴く、レールを刻む音とともに遠い日、東に向かう夜行列車のなかで文学好きの教師と論じ合った日々のことを、あるいはサルトルノーベル賞を辞退した日の翌朝、ふだんは話したこともないような同級生たちから質問を矢継ぎ早に受けたことを、わたしはそれらの日々と時間をサルトルの思い出とともに感謝している・・・・・。

サルトルを愛した人びと
         愛している人びと
              愛するであろう人びとに。

ボーヴォワール別れの儀式