アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ジェイムズの『死者の祭壇』 アリアドネ・アーカイブスより

ジェイムズの『死者の祭壇』
2013-06-14 15:46:11
テーマ:文学と思想

 

http://www.natsume-books.com/img_item/53554.jpg


・ 一部には名高いジェイムズの『死者の祭壇』である。難解を持ってなるジェイムズの他の書に比べればその異色さは一読してその通りと云う印象である。朦朧態による間接照明の技法は相変わらずだが、辛辣な、時に暖かいエイムズの人間観察が影を潜めている。まるでジェイムズの巨大な交響曲からアダージョの部分だけを持ってきたと云う感じである。

 話と云うのはこうである。――誰しも老齢が近づくとある時期を境に生者の群像よりも死者の思い出の方が多くなると云う時期があるものである。その時期をすぐるともう人生には新たな出会いや展開と云うのも期待できなくなり、過去への追憶の方が重きを置くようになる。そして彼が長命であるならば廻りを観渡すと自分の周囲が思い出ばかりに満たされている、と云う話も古老の話から思い当たることもあるだろう。この物語のストランサムは50年代のそうした男である。

 彼はなお少しは仕事をしているのらしいが、ある頃から自分に親切にしてくれた死者たちのことを思うようになった。特に生涯独身を貫いた彼には小さな秘密があって、その秘密とはメアリ・アントリムと云う人妻に儚い慕情を奉げ続けていたと云うことである。その彼女も数年前に鬼籍に入ってしまうと彼の心の祭壇はいよいよ彼女への追憶を中心に照らされることになった。

 ある日彼の心の中に変化が生じて、彼の心の中で輝きずづけている心の祭壇を現実の祭壇に移して見たらどうだろうか、と思いついた。裕福な彼にしてみれば教会関係者にこの思い付きを話して見ると奇特な話であると乗り気になってくれた。これで彼は自分の思いのままに、心の祭壇の上で燃え続ける蝋燭の数と同数のものを実在の祭壇でともして見ると云う冒険が可能になったのである。

 そして遂に運命の日が訪れる。以前から彼自身と競うように祭壇に額ずく一人の黒衣の婦人がいるのに気が付いていたのだが、思いがけず隣り合わせになって言葉を交わすことになった。彼女は貧しく粗末な服装をしていた中年の疲れた婦人であったにも関わらず、十分美しいことを観てとった。彼女には思いつめるほどにたった一人の人に捧げられる思い出があるようだった。内気な二人は、心の内側に仕切りを引いて、あからさまにはそのことを話題とはしなかった。

 こうした次第であるから、二人がお互いの住居を訪ね合うまでには随分時間も経ったことだろう。黒衣の婦人が同居していた伯母が亡くなってその機会が訪れた。婦人の住まいは場末の日当たりの悪い場所にあった。最初は居間に通され、二回目は婦人の私室に通された。私室は故人の思い出で飾られていた。その故人とはストランサムがよく知っている人物であった。学生時代の親友で、後に理由が明かされない決定的な仲違のため死後に至るまで交際が途絶えていた当の人物であった。

 事情を理解した婦人はストランサムの性格ゆえに許してくれるだろうか、と問うた。これは今後も二人の関係を継続することの同意と同意であった。彼は頷いた。しかし再度婦人が彼のために蝋燭を灯してくれるかと云う問いには、それは叶わぬことだと応えた。これが二人の別れとなった。

 その日からストランサムが体調を崩して亡くなるまでの数年間は、夫人にとっては教会からも遠ざかり自身の貧弱な私室で過去を思い出に奉げられた日々であった。その日々はストランサムにとっては心の祭壇と云う教会での行事は中断されることはなかったが、自分が以前ほど熱心ではないことも気が付いてきた。心が虚ろになっていくのに気が付いていた。彼にとっても失意の時代であったわけだ。
 しかしストランサムが偉いのは、そんな失意と寂寥の日々にあっても、孤独が持つ厳しさは自分よりも婦人の方が上回って余りあると感じていたことだろう。
 しかし彼にはその一本が、彼女が懇願した一本が許せないのであった。むしろ歳の順序と云うことからすれば、最後の一本は自分のために灯して欲しかったし、そのようにも伝えてあったのである。

 こうして二人の間には仲違を解消できぬままストランサムの方に先に臨終の時が来た。いまや彼の心の祭壇は赤々と燃えていた。とりわけ明るいその一本が生涯慕情と純情を捧げたメアリ・アントリムの微笑となって彼の魂に両手を差しのべていた。しかし今は天使ともなったメアリ・アントリウムは、彼が拒否し退けた婦人の願いをも降下するようにと望んでいたのである。
 心の祭壇の燃え立つ蜀台の蝋燭の全てがそのことを望んでいた、と云うのである。

 彼は打撃から立ち直ることが出来ずに祭壇を前にがっくりと膝をついた。
 その彼を何時しか教会に迷い込んだ、仲違をして久しい黒衣の婦人が支えた。
 ストランサムは奇跡の邂逅を歓びながらも、最後の死力を尽くして事情を説明した。
 数日後ストランサムは婦人に看取られて亡くなったが、最後の言葉は次のようであった。
 「いや、あと一つ。」「一つだけ!」

 ジェイムズのこの書には、解説も何もいらないだろう。