アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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映画『サガン』について アリアドネ・アーカイブスより

映画『サガン』について
2013-09-07 18:25:44
テーマ:映画と演劇

 


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・ フランソワーズ・サガンと言う、かって一世を風靡した女流作家の、栄光から一転して死に至るまでを描いた映画である。

 映画を簡単に要約すれば、サガンの不幸は常に作家としてのサガンよりも、作家としての自由奔放な生き方に基づいた私生活がもたらすスキャンダラスな意味が卓越していた、と言うことだろう。サガンを追い詰めたものもまた、現象としてのサガンと私生活上のサガンの間にある無限乖離、そしてフランソワーズ・コワレと言う傷つきやすい少女の死に至る病と言うことになる。

 この映画を通して感じられるのは、一度としてサガンがフランスの批評家達に真面目には取り上げられなかった、と言うことだろうか。サガンの小説は最初から一過性のものと見られており、小説の内容を小説よりもそれ以上に本人が演じてしまった、と言うことにあるのだろうか。その限りでは、この映画はだいたいの表面上の、サガンを襲った生涯上の出来事を追っていて、何がしかの参考にはなる。

 しかし小説の内容を踏まえることなく作家の評伝が成り立ちうるのであろうか、この点について映画は曖昧である。処女作『哀しみよ今日は』は十代の奔放な私生活を描いたものではない。実存的な虚無観に支配されながらもなお、変わること亡き知性の高みが現実の頽廃を是認する、その倫理観の優しさを読み取らなければこの小説を理解したことにはならないだろう。

 第二作『ある微笑』と第三作『一年の後』が表現しているのは、一人の個人の肉体の上を通過する出来事は所詮どうでも良いことばかりで、例えエポックメーキングな出来事、とりわけ恋愛に固有な高揚感こそは時に人を永遠と言うものに直面させるということがいわれ、かつ文学や映画で描かれてきたことがあるけれども、本当のことを言うと、思い出とはワンフレーズの音楽にも及ばないという、徹底的に醒めた恋愛観なのである。
 つまり、人生の本当に大事な出来事や経験は、指の間をすり抜けて落ちていく砂のように、実人生に留めら生かされることはない、と言う無常観にも比すべき徹底的に無神論的な人生観だったのである。

 実際の現実的な時間を生きる人間としての感受性の水準と、作家としての資質と言うか感受性が、実人生の経験に比して余りにも卓越したものでありえたときに、人はどのように生きたらよいのであろうか。また、恋する愛するといっても、どのような恋愛が個人として可能だった、というのだろうか。

 それでサガンの人生体験といえば、自らの資質を嘲るかのようにして選んだ二人のカウボーイたち、――アメリカ人との結婚であり、当然の結果としての離婚と失意の体験ででもあっただろう。しかもサガンの場合、自らの理念としての恋愛経験が周辺環境との際だった価値観的な乖離を文学論として前提としているために、作家としての感受性のレベルでの卓越が前提されているがゆえに、経験がサガンの人生に経験として役立つことは決してなかったのである。
 
 つまりこういうことである。――人としてのサガンは最後まで少女の域を脱することが出来ない、依存心の高い高い少女であったが、作家としての感受性はとても老成していて、少女が生きようとする毎に「作家」は、冷徹な認識論的な批判者として現れざるを得ず、天才的感性と凡人との間で傷つきながら生きるほかはなかった、と言うことである。映画が描くように実際の額面で評価された自分と実際の自分の価値の格差に傷ついた、と言うようなアメリカ映画風の理解ではなかったのである。

 映画は、流行作家としての虚像と実像、文学者というよりもスキャンダラスなメディアの話題提供者としての、世評と才能の間にある乖離ということを信じてこの映画を作製しているようだが、今後研究も進めばこのようなサガン観は改められるべき時が来るのかもしれない。

 この映画をみて分かったのは、フランスの文学と映画界とは随分と鈍感な人たちの集まりだな、と言うことであった。こんなことなら朝吹登美子が翻訳に付けた解説文の方がよほど優れている。最近のフランスとは、こんな単純なことも理解できないような水準にあるのだろうか。