アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『ハムレット』に描かれたガートルード アリアドネ・アーカイブスより

ハムレット』に描かれたガートルード
2013-11-22 09:27:39
テーマ:文学と思想



 今回は再読と同時に映画なども観ました。特に、何の個性もなく消失点のようなハムレットの母親・ガートルードの哀れさには涙を禁じ得ませんでした。あるいは政変がらみのある種のアクシデントが齎した政治的空白や王室の空位と云う事態が帰結する混乱を避けるため、はたまた、あるいは生身の女としての願いが、息子から予想もしないような形の反撃を受けようとは。自分の幸せを願ったばかりに、かくも息子から激しい罵倒を浴びた母親はいなかったのではないのか。言われたことは当然であるとしてもこれを実の息子の口から聴かねばならぬとは!しかも私室に呼び寄せた息子の追及は、親と子のものではなかった。息子が刃をもって迫ったとき、彼女もまたシェイクスピア時代の観客もまた、ギリシア悲劇におけるクリュタイメストラの運命を思い浮かべたに違いない。

 その彼女が大きく息子の方に心情的に舵を切るのは現王クローディアスによる謀殺の可能性をハムレットから受け取ってからによる。しかしその後距離を置くようになるとは云うもののクローディアスの非の打ちどころのない賢王ぶりに、息子をイギリスに大使としてやるときも、レアティーズとの決闘の場に王妃として望むときも、それと気づくことなく淡々と日々を過ごしたかのように描かれている。本当のところがどうであったか、脚本を読む限りでは彼女の内面の陰影が、委曲を尽くしては描かれてはいない。

 この地味なヒロインが唯一記憶にと留める場面は、オフィーリアの死を伝える有名な美しい比喩的な語りの場面においてである。無垢なるものとして死んでいった娘にささげた追悼の辞はやがて彼女が死に逝くものであることを暗示している。しかしこの場面においても、この愚かな母親はそうした運命を自覚し、それに気付いたようには描かれていない。しかし何故、全編中でも白眉ともいえる、この美しい場面が、不貞の典型のように描かれているガルトルードによって語られるのかは謎である。多くのシェイクスピア研究家はこの謎に答える必要がある。ガルトルードの描き方が中性的であるとか描き足らないという前に、この疑問に応える義務がある。

 一昔前より最近までよく文学研究の方法として原典に即した理解と云う事が言われる。言われてみれば当たり前のことのようだが、作品が作者その人とは別物だと云う事は伝統的な言説の範疇であり文学研究の大原則でもある。戦後の原典主義がこれと異なるのは、ことさら「テクスト」と云う言い方を用いて、作品が何らかの作品に描かれた限りでの形象的表現以外の本質を想定する認識論的なあり方に対する疑問を言うのであって、ここが伝統的な作品論とは異なっているようだ。先に論じた柄谷行人などの言説も、意味への禁忌と云う事で云おうとしているのは、出来事そのものの背後に「本質」を想定することへの懐疑である。事象は事象そのものとして、作品は描かれたママが全てであり不要な猥雑物は付帯するべきでない、と云う意味である。

 芸術作品の自律性に関する議論はこのように繰り返し文学研究史に登場しているようであるが、戦後のニュークリティシズムも柄谷などの見解もそういうものの変種のひとつであるような気がする。文学研究は作品そのものに基づくべきであるというのは反対しようのない当たり前のことだが、なにゆえ今頃そうしたことが事改めて、新学説であるかのごとく主張されなければならないのだろうか、ここに彼らの不自然さがある。

 そのおかしさの一端を『ハムレット』を例題にいうならば、こう云う事も言えるだろう。つまりガルトルードと云う母親は、ハムレット劇の中では重大な配置を占めているにもかかわらず地味な役割に甘んじているこの女性は、テキストを読む限りでは愚かな母親だという印象以上のものではない。どのように丁寧な読み方をしても、例えばローレンス・オリヴィエが演出したような重厚な性格は出てこない。
 ところがクローディアス王が演出した盃を取り上げるとき、今まで自らの意思を一度も鮮明に表明したことのない男尊女卑の慎ましい封建制の美徳ともいえる女性が、ただ一度だけ、「ノー」と云うのである。劇に登場するときは何時も王か宰相ボローニアスに付き添われて登場し、彼らの傀儡であるかのように行動するこの自律性なき女性が初めて、ノー!と云うのである。こうした重要な場面で、柄谷のようにテクストに描かれたもの以外の意味は一切読みとるまいという姿勢では、重要な意味を取り逃がしてしまうのである。
 ここはこのように読まなければならない。――そんな事とは夢とも知らず母親は大仰に円卓の上に置かれた盃にふと目を留める。そして半信半疑のうちに唇に触れる。王の制止を振り切って飲み干した時彼女は半ば確信していただろう、王の方をじっと振り返る。生涯のうちでもっとも価値ある行為をなしていることを、息子のために母親として立ち返っていることを観客に告知する最も感動的な場面なのである。女であることに母親であることが打ち勝つ場面である。

 さて、何故、オフィーリアの入水と云うシェイクスピアが描いた最も美しいエピソードが彼女の語りによって描かれたかの理由が分かるであろう。オフィーリアの死を語ることにおいて既に自らの死の受容と云うものが言外に描かれているのではないのか。そうして死の盃が手の届く範囲にあるのを見出した時、この偉大な女性は初めて運命と云うものを理解するのである。

 要は、文学研究とは原典を中心に形成さるべき営為であることについては誰しも異存はない。ニュークリティシズムや柄谷らに欠けているのは、残されたテクストについての科学的な研究が全てではなく、とりわけシェイクスピアのような戯曲においては当時の演劇がどのように演じられたか、観客や演出家は当時どのような予備知識や耳未学問を持っていて、「テクスト」そのものに如何なる幻想的な意味を読み込み目に見えない形而上学的演劇的実体を与えていたか、原点批評だけでなく、観客と時代と場所と云う演劇空間の総体を踏まえてこそローレンス・オリヴィエのような解釈も出てくるのであって、これを演出家の単なる恣意的な解釈と云ってはならない。