アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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寅さんシリーズの第四十六作 アリアドネ・アーカイブスより

寅さんシリーズの第四十六作
2014-09-08 08:58:23
テーマ:映画と演劇



 寅さんシリーズも46作目に来て随分遠くまできたものだなと云う思いを持つたのはわたしだけだろうか。寅さんシリーズに対して批判的な一人でありながら、43作、そして本作の苦さはどうだろう、寅さんシリーズのリアリズムはここまでくれば、もう一つの東京物語であると云ってよいほどである。

 物語と云うのは、この時代(1993年)は既に就職氷河期が始まっていた時代らしく、満男はやけになってブチ切れ家族問題にまで発展する。満男が四十回も落ち続けると云うのは能力や性格の問題もあるのだろうけれども、面接で親の学歴や勤務先を問われることはつらいことである。今度こそは、と思って頑張った面接でも、本社の所在地を聴かれて、ああ、町工場なんですねと云われて思わず手の平と指先に目を落とさなければならないほどである。両親や、特に父親との口論の果てに家出をする。

 家出の先が瀬戸内海の高松市に近い小島であったと云うのはもう随分経ってからである。万策尽きた両親はたまたまふらりと柴又に寄生した寅さんとの間に、説得して呼び戻してくれるような話になる。
 そして島には、意外にも病気療養中の美女がいて・・・・・、となる。
 ここまでの範囲であれば、いつもの寅さんのシリーズの定石である、と思うだろう。

 周知のように、寅さんシリーズの最後の数作は、渥美清の病歴と体力気力の衰えを慮ったか、その喜劇仕立ても、寅さん、満男のダブルストーリーとなっている。そして、この二つの話が二つとも苦いのである。

 満男の場合は、島民の素朴な善意に助けられて、舟に乗ったり丘の斜面の畑仕事を手伝っている満男の現在が活写される。彼の相手は島に定期的に通い半定住している看護婦をしている若い娘である。彼女は地域医療への貢献を旨としその職業倫理感は揺るぎないものがある。つまりどこか寅さんに似ている甥の相手としては立派過ぎるのである。しかし彼女も満男同様若いのである。大阪の看護学校を出てまだ間もない頃と思われ、都会の青年に恋心を抱いてしまう。こと恋愛感情に於いては、高貴な人格や社会経験は時に無力なこともありうるからである。少女はまるで野生の女のように満男を誘う。そして破局が来る。
 二人の愛と云うよりも、男女間の友情に近い関係の中で語られる苦さは、人は必ずしも最適な配偶者を選べないし、夢のような根拠のない愛を追い求めると云うことだろう。何故かと云えば、恋は既に生じていたとしても、その時の当事者間にものごとを正確に見抜く能力があるとは限らないからである。恋の儚さつれなさとは、情熱と物事を見抜く認識の不一致にある。
 少女は、満男が何れは帰っていく都会の青年だと云うことを知っている。彼女の冷徹な認識と人間としての情念は一致しない。島に突然現れて正体を現し始めた寅さんとはどういう人かと満男に質問して、永遠のマドンナを追い求めるロマンティストであると説明する。しかしまるでもてないのではなく、相思相愛に近い関係が成立することもまれにあるのだが、ぶち壊したり逃げてしまうと云うのである。満男はそこに男の、寅さんの純情さの証を見る、あるいは見たと信じる。しかし少女はそこに男の身勝手さをみて、あなたもにているところがあるわね、というようなことを言う。二人の認識のすれ違いと云うか、人生観照の差がとても悲しい。

 もう一つの寅さんをめぐる物語はこうである。村で余生を送るどこかハイカラな遠洋航海の船長をしていたと云う老人と、そこで恢復期の療養生活をしている娘を松坂慶子が演じている。昔は美人だったが顔や体の線も崩れもはや美人とは言えなくなったか彼女が、神戸にある料亭の女将と云う設定で登場している。実際には商売の失敗からその料亭は人手に渡っている。彼女は病気にかこつけて父親のところに転がり込んでいるのだが、それを父親は不思議にも思い、親孝行な娘と勘違いしている気味もある。ここでも認識のすれ違いは悲しい。
 ある日、寅次郎の滞在も終わりに近づいたころ、父親は二人の望ましい関係について問わず語りに問う。娘も――と言っても小母さんじみた松坂の容姿からすれば40代後半か?――まんざらでもないようである。寅さんももてるようになったものである。寅次郎は例によってこれを退却の合図と受け取る。つまり卑怯なのである。その卑怯さは、既に父親も知らないことを知っているがゆえに、つまり娘が神戸の料亭を人手に渡して久しく、無一文であると云ういことの認識の上に立っているがゆえに卑劣なのである。

 寅さんの決まり文句、――俺の顔をじっと見てごらん、これが生涯定職を持たず人の世話になるばかりで渡世稼業を過ごした男の顔だ!と。これは男の美学と云えたものではない。女は傷つくと解っていても運命に果敢に挑戦するものだが、男は終始安全圏にいて、ストイックな愛をロマンティックに語る、結局は自分自身を愛しているに過ぎないのである。四十数作にもわたって描かれた寅次郎の人生がその程度のものであったとしたならば、大変い哀しいことなのである。

 クライマックスがどの部分にあるかは意見が分かれるかもしれないが、わたしは父親から残りの遺産と登記簿を渡される娘の、松坂慶子の演技に注目したい。思い出すのは、東京物語原節子笠智衆東山千栄子演ずる義理の親子の演技、ここでわが高貴なる原節子は貧しいたくわえの中からお小遣いを恥ずかしそうに母親に渡す。まさに芥の中に舞い降りる鶴か白鳥の趣きである。
 山田の46作はこれを反転して、娘は銀行通帳と印鑑を渡されて激しく嗚咽する。嬉しいのではなく、「親孝行」を見透かされて恥ずかしいので泣いたのだろう。わたしはこんなに哀しいヒロインを日本映画では初めて見たような気がした。この場面は、かっては美しかった、今はもはや美人とは言えない松坂が演じるがゆえに日本映画の至宝とも言える演技を導き出したのである。

 映画監督山田洋次の人生観の熟成はこの作と43作の夏木マリの演技に極まっていると思う。寅さんシリーズを覆っている通奏低音とは、ちょうどイギリスの女流作家ジェイン・オースティンのように、恋とか愛とかは観念ではなく物質的な条件、経済学的な範疇に拘束されてある、と云う認識の冷静さである。ひいき目にみれば、満男の卑劣さも、実際は精神的物質的の両面における不釣り合い、人格的な、そして生活力の差について日本男児として決して無関心ではありえないと云う日本社会の社会の慣習性を踏まえた満男たちの生きる世界の人生観なり処世観が投影されたものでもあったろう。同様に、なぜ寅次郎が永遠の振られ青年をコミカルに演じたかも、実際は日本の社会と云うものが、戦前に於いても戦後に於いても一貫して変わることなく、働かざるもの食うべからざるの社会であること、その社会は貧富の格差と道徳的な良し悪しがパラレルに連動する極めて不寛容な社会であったこと、つまり寅さんシリーズの映画とは社会の冷徹さが自らの本性をカムフラージュするためのイデオロギーに過ぎないこと、その点をようやく明らかにしたことであろう。
 寅さんシリーズは46作目に至って日本社会の冷徹さに根差し、良いにせよ悪いにせよそれに対して意識的であるところからしか何事も始まりはしないと云うことを語っているようにわたしには思えたのである。