アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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阪神間に暮らしたこと――阪神淡路大震災から20年―― アリアドネ・アーカイブスより

阪神間に暮らしたこと――阪神淡路大震災から20年――
2015-01-17 09:22:17
テーマ:社会と地域


 阪神淡路震災の復興支援では最初二月中旬に現地に入った。震災直後の最も困難な時期は過ぎていたけれども、依然として神戸市は主要な周囲の交通機関からは閉ざされていた。陸の交通が遮断されていたので関西空港へ飛んで、大阪のとある埠頭から神戸港の岸壁へ漁船に乗り込んで上陸した、大げさな表現だがノルマンディ上陸の映像が点滅した。もちろん神戸は戦乱の地ではなかった。電気も水も通っていた。このころの思い出を語るには大阪へ出るのに、いったん六甲を有馬に抜けて福知山線を利用して出るか、御影の付近を一路線か二路線歩いて私鉄とJRを利用して出るかであった。新幹線はまだ復旧していなかった。日没後に神戸に入る帰路を、黙々とリュックを背負って頭巾かマスクをした群衆の影が照明のない廃墟化した街区を川の流れのように列をなして、無言で通り過ぎる光景は異様であったのを今でも憶えている。
 再び震災の地に入ったのは初夏の日差しの明るい五月中旬の頃であった。このころは交通手段も復旧し町は平常に戻りつつあったが、あらかた整理がついて空地が目立つ歯抜け状態の街区と、東西に抜ける国道や主要な地方道がダンプをはじめとする工事車両の渋滞で占められがちであったこと、全体的に粉塵の舞う埃っぽい町であったことが記憶に残っている。その後秋ころまではいたけれども、神戸とわたしの繋がりは希薄になっていった。

 その後神戸の事は記憶から次第に遠ざかることとなったのは遠隔地に居るものとしてやむを得ぬことでもあったろう。その後も神戸の町を通過するたびに街の復興を目に見、実感することはできたけれども、思ったほど町の賑わいが戻ってはこなかったとも聴いた。とりわけ東アジアにおける国際貿易港としての凋落は顕著であったことを、後に聴いた。釜山と韓国経済の交流著しい時期と重なったことも不運であった。わたしたちの知らない阪神淡路は、わたしたちの目に見えない層で、その他の注意をひかない広範な場面や局面でも静かに地滑りをおこしていたに違いない。

 先日、NHKのクローズアップ現代で神戸の20年間を取材した番組を放映しているのを見た。20年間を幾つかの期間に区切ってアンケートとインタヴューで経過を記録するものである。その結果は、意外にも残酷なものであった。
 震災の復興の声が高かった5年後までのあいだは、町は着実に復興の途上にあった。復興のスローガンを見倣うように人も物も建物も施設も目に見える形で復旧していった。それは住民に実施したアンケートとヒヤリングの結果にも現れている。仮設の店舗が店開きをし徐々に住民も帰って来て、住民間の交流が復活しつつあった時期がこの時期である。それが新たに流入する人口、阪神淡路を知らない世代間の交代――と云う目に見えない変化の中で、町は変質していった。この頃から阪神淡路の出来事は次第にマスコミや報道番組の表から消えていく。町は新しい時代の笑顔に包まれていたのかもしれなかったが、古い神戸は次第に表舞台から去っていった、と云うのである。ちょうど、外部のものの目には神戸の町の変化が、世代間交代や地区間の大規模な人口の通出入現象を感知できないために、変化が変化として感じられないと云うことだろう。つまり人はいても、変わらぬ人の姿はあっても、丁度老齢施設のように懐かしい昔の人は既にいないか、いても退場を余儀なくされて行ったと云うのである。無常感漂う現地からの証言である。

 地域のコミュニティ論の立場からは、震災地にもたらされた大規模の再開発計画が地域地縁の古い共同体の機構を破壊し町の変質を推進した要因の一つとしてあると、専門家は指摘している。つまり五年程度までは復興の途上にあった地域の商店街が折角の立ち直りの過程にありながらも、二つの面で、
① つまり町は再開発の結果きれいにはなったけれども入居金や賃料の高騰のため地権者の権利を手放さざるを得ない、
② 他方でも同じことが、地域住民の方でも、地域の経済が成り立たないがゆえに、地域復興の道半ばにして他地区への移転を余儀なくされていた、と云うのである。
 こうした地域を見舞う時間の腐食作用は3・11の震災に見舞われた地域に於いてはより深甚なものがあるであろう。また、神戸の場合は都市型災害の時系列の形を示したもので、より広範囲であった東北の現実は違った形をとるであろう、その姿は予見できないけれども不可視の不気味さが地面の底に横たわっている感じである。そして容易ならぬ困難さの予感だけがわたしたちの心を塞いでしまいがちになりかねない。

 同記番組で紹介された事例だけからでもわたしたちが受け取る感想は、半ばは神も仏もあるものかという感慨に近い。夫婦で飲食店を立ち上げかかった夫婦がいる。職場で寝泊りも辞さない努力の果てに店は復興するのだが反比例するように住民の新陳代謝と人工退出と流入を繰り返す大規模な人口移動の現象の中で、古い住民の営為はことごとく押し流されてしまう。夫妻の片方は無理がたたったように病に倒れていく。病に倒れた方は残された方に感謝の気持ちを伝えて死んでいく。死ぬものよりも残された方の困難さを思いながら。
 あるいは生業は復興できても大学生の一人息子を亡くした母は無念さを思って子息の大学に入学し四年間の後に晴れて卒業証書を受け取る、息子が願っても得られない形を得るために。懸命に生きたその20年間が刻印し残したものは、人生を十分生き切って、生きすぎるほどにも長年織り上げた布地の模様がすり減って、残された時間が数えることが出来るほどにもなる小さな全体となるある日が訪れ、人生と云う劇場から退場すべき時が近づいていることを自然態として観念する、と云うものである。

 地方の県庁所在地の生まれで人生の大半を地方で過ごして青春の一時期だけ都会の経験があると云うものにとって日本とはどこに行ってもその両極に於いて同じで、津々浦々、東京と云う都市の同心円状の相似形に過ぎないのだと思ってきた。つまりどこにいても金太郎の飴のようにリトル東京!の相似形なのである。東京の華やかな世界を知らないから、都市郊外の風景や風俗を見る限りにおいては、60年代においても、都鄙の相違点は顕著には感じられなかった。学生生活とは東京と云う町の片隅で、同じような境遇にあるもの同士が紡ぎあげる生活は、第二の自然、第二の居住区、戦後の顕著な都市風俗とでもいえるもので、いまから考えれば所在も履歴も不明な無名化された空間のなかでは、貧しさですらもが皆が豊かではないと云う理由で劣等感の原因には成り得なかったし、むしろ何事にもとらわれない自由さの気風と相乗されて特権化された意識すら生み出されていたほどである。他方、都市近郊の匿名化され国籍不明の抽象的な空間の中で、日本は何処までも均一化された現実が広がっているのだとも思ってきた。

 しかし神戸や阪神間の小都市は発達したJRや私鉄の各駅ごとの街区を形成しているのだった。町の郊外の大規模モールに行くと云う生活スタイルが発達を見せ始めた時代に、地域地縁で衣食住が足りると云う生活様式がいまだ残存していたのである。そして晴れの日や今日は少し気分を変えたいと思えば、彼らは神戸や大阪の繁華な場所へ、そして京都や奈良の落ち着きのある場所へと赴いたのである。そうした移民都市・東京と、リトル東京めいた地方の諸都市間では失われた地域地縁の古い共同体の形が、神戸と阪神間の諸都市には残されていて、大震災による物理的破壊が、戦後日本の消費文明のスタイルの変化する時期と一致していたと云うのも不運な出来事であり、考えささられるものがある。

 神戸と京阪神で暮らした思い出は、短い期間であったけれども、思い出すたびに、何か同じ日本とは違った思い出に満たされている。思い出の時間に向き合う姿勢が深いのは、震災と云う非日常の時間が地域と空間に独特の色調を刻印していたかもしれないが、地域地縁に暮らしていた人々がいた、と云うこともあったに違いないと感じている。神戸と阪神間の町がわたしに与えた恩恵の如きものは、長い時間を経てその後もわたしに影響を及ぼし続けた。非日常性の中で生きた、明日が読めない空白と、底がないような白い空虚感と云うものもまた、わたしと彼らの間に馴染みやすい親密さの共同性と云うものを生み出していたのかもしれない。
 それらの何れがどうであったかを知りもしないし知ることもできない、検証もできないまま時は徒に過ぎていく、離れ離れになり交流も途絶えて隔離された各々の中を時間は平等に流れて行ったが、復興の風景の背面でその間に天地の差ほども異なった各々の経験があったのだが、少なくとも和解し、あの日から変わったのだと云う実感だけは記憶の引き出しの中に大切に仕舞っている。