我と自我と自己と アリアドネ・アーカイブスより
我と自我と自己と
2019-05-28 09:29:36
テーマ:宗教と哲学
これらの言葉はどう違うのだろうか?
最初に、大上段から定義しておけば、自我とは近代に固有のの現象である。いつの世も遍在的にあるようなものではない。
フランス革命前後の人々が周囲の環境世界との一致の感触を失ったとき、つまり「変革」や「革命」の目で現象世界を見たとき、「自我」は誕生した。
自我を、特に近代的自我と言うこともある。
小林秀雄などが理解していたのは、一面的に誇張された、かかる限定的意味合いに於いてであるに過ぎない。
それ以前の、あるいはそれ以外の汎用的なあり方を「自己」と言う。
自己とは実在的な対象ではなく、世界環境世界と自己的内面世界がクロスする、交差点のようなあり方を想定している。世界環境世界を革命や変革の目で見るか否かには関わらない。
自己とは、大乗仏教が小乗的な意味から区別するために用いている考え方があるが、そういう風に理解しても良い。
とはいえ、自己の中にも自我的な側面は存在する。
生物種としての「ひと」的な存在が、適者生存等の試練等に遭遇した時にその存在が迫り出し屹立してくる。
生物種としてのひとは、自然的存在なのに私利私欲などと極めてマイナスの道徳的価値判断を重ねて評価されることが多い。しかし自然的存在に本来なんの咎があるわけでもない。あえて言うならば、自然的存在が未だ人間的存在に至らない、過渡的な状態にあるというに過ぎない。
ここに過渡的とは、通過点という意味ではなく、永遠の待機性を意味している。
「ひと」とは、本来性顕現としてのひと的存在が、悠久の課題として「人間」になりうるものとしてある、決して途絶えることのない、継続しつつある意志の、永遠の待機の状態の如きを意味する。
自我とは、近代という時代の終わりとともに終焉するであろう。
問題なのは、その近代という時代がなんであったか、近代と言う人類史の過渡をどう評価するか、と言う点なのである。