アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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森有正さんの「経験」ということについての往復書簡? アリアドネ・アーカイブスより

森有正さんの「経験」ということについての往復書簡?
2009-04-05 07:47:22
テーマ:宗教と哲学

森さんのいう「経験」というのがいま一つ、私には分からないのですね。
経験という言葉で、何を伝えようとしたのか。

森さんは、あるところで日本人の自然観を痛烈に批判しています。
その要旨は、伝統的日本人の感性が、花鳥風月的なレンズをとしてものを見ているので、その背後の「ナチュラル」なものが見えていないのだと。まるでその言い分だと、そこに日本人の後進性すら感じられる発言であるかのようです。

西田哲学でいう「純粋経験」では、森さんのようなアカデミシャンが「学問的」理念で抽象化して理解しているような「経験」は、かえって一つの学的抽象ではないのか、と言っていたと思うのですよ。

                    ◇◇◇

KUGIMIYA AKEMI 釘宮明美 殿 より高田宛て


こんにちは。下記、森有正の「経験」について考察してみたことがあります、ご参考まで。

稲垣良典先生の『講義・経験主義と経験』(知泉書館)『問題としての神』『抽象と直観』(いずれも創文社)は、森の「経験」の射程を考える上で非常に示唆に富みます。オッカムやスコトゥスを境とする「14世紀における形而上学的霊魂論の崩壊と認識理論の根源的な変容」から近世以降の経験主義は、「経験」は理性によって認識可能な範囲内に閉じ込め非常に貧しいものにしてしまったのではないかと思います。そういった点まで視野に入れて考察しているところですが、目下、泥沼にはまっています。渡仏後の森がなぜ、渡仏前には否定していた自然神学に目を向け、西田や道元を読むようになったのか。稲垣先生が前二書で森の「経験」について言及されているのに、わが意を得た思いがしましました。

‘追伸’
「経験」は理性によって認識可能な範囲内に閉じ込め非常に貧しいものにしてしまった
ここの書き方、自分で書いておいて非常に不十分なまずい表現でした。理性→感覚的経験 と訂正いたします。それにしても、かえっていっそう抽象化するような説明になってしまい、失礼しました。

                       ◇◇◇

KUGIMIYA AKEMI 釘宮明美

私は少し誤解していたようです。大変失礼いたしました、のは、わたしの方です。

森有正の、経験、の発見とは、感覚、の発見のことだったのですね。
森さんの場合は、意志を動因としつつ、日常性の概念的枠組みを去って、<もの>それ自体にいたります。有名な、人間の感覚的な不確かさを去ったデカルト的懐疑、と呼ばれたものです。デカルト的懐疑の遂行によってデカルト的延長・・・等の世界が出現します。いはば無感覚なニュートン幾何学的な世界が出現します。これを仮にここでは遡源的過程というふうに名付けます。

遡源的過程によって<もの>は精神となります。デカルト的遡源的懐疑によってわたしたちは個人的で恣意的な<感覚>的な世界を克服することができるのです。デカルトの歴史上しめる(哲学史上ではありません!念のため)偉大さは、この段階における功績にあります。
しかし、デカルトの本当の偉大さはここから始まるのです。つまり、デカルトは方法的懐疑によって得られた無謬性の証である<精神>は今一度、ありありとしたわれわれの感覚的な、具象的な世界に帰還しようとするのです。
<精神が>、現実的事象、すなわち<感覚>に還元する過程を、経験、という概念の成立として森さんは理解しているようです。

遡源、還元、両過程を、ここでは<思想>と名付けます。この両過程は、現象学でいう、理念的・自然主義的世界と日常的・自然世界の区分に似ています。

しかし、遡源的過程は両義的であって、森さんは近代主義の問題性についても言っていますが、実はここで成立しているのは無色透明な学的理念ではなく、極めて強烈なイデオロギー性をもった近代的<物質>概念なのです。この概念の顕著な特徴は、上位概念を不要とする極めて自覚的な思想が歴史上はじめて成立をみたことです。近代的物質概念が文明文化を推進し利益をもたらすとともに、やがて致命的・破壊的役割を人類史に果たすことになる経緯については、ここではふれることはできません。

さて、それではもう一つの<還元過程>、つまり<経験>という言葉で、森さんは何を伝えたかったのでしょうか。

近代的認識論は、美や生き甲斐、つまり生のありありとした臨場感をうまく説明できませんでした。本来人間の認知作用は多様なのであって、近代的認識のみには限定できるものではありません。認識とは多様な人間的認知的生産作用の、有力ではあるが、選択肢の一つであるにすぎないのです。人間の認識作用を、それのみを人間の主要な認知的な機能であると誤解することによって得られた<近代主義イデアロギー>が果たすことになる一種寒々とした役割についても、ここではふれることができません。

話がそれてしまいましたね。本来の話題に戻すと、

森さんの偉大さ、孤独さは、1950年代、60年代以降というあの、比例級数的に増大する<世俗性>の時代に、すべてを捨て、フランスという国に一部自分自身を<隔離>する、というあえて過激な手段を行使してでも、精神の自主性を守ろうとしたことなのです。日本の、戦後史の中に場所を持たないこと、それがあえて言えば森さんの偉大さと悲惨さでありました。

精神の自律性を身をもって守ろうとしたこと、それは唯一彼がデカルトから学んだものでした。森さんのパリでの死が、「客死」とでもいうべき壮絶なものであったこと、当時の報道をよそごとのように半ば思いだしながら、いまありありとその死が如何に彼の死に相応しかったかを、想起するのです。

                     ◇◇◇

KUGIMIYA AKEMI 釘宮明美 様 

あまり遅くても、ということで感想をしたためました。たぶん私の理解の足らないところ、あると思います。私の初出の感想は、たしかに理解を欠くものです。そのことを気付かせていただいたことに、まず感謝します。

さて、現状では不完全ながら、まとめ、というようなものをさせていただけるなら、次のようになります。まるで口頭試問の前に立たされた生徒のような気持で、おしかりください。

(1)遡源的過程:現象学の場合は、この段階は明晰さに至る認識のの問題ではなく、ヨーロッパ諸学の危機として感受されたこと。

(2)還元的過程:<経験>すなわち純粋経験が西田哲学の場合、所与として与えられていることを森さんは非難します。なぜなら森さんにとっては、<経験>とは、遡源・還元両過程を通じて得られる<意志>を動因としつつ<我>によってもたらされたものだったからです。しかしその<我>とは誰か?と西田哲学では問うていたのではないでしょうか。

今後も森有正については考えてみたいと思います。わたしたちの前を歩いた偉大な先輩として。少し時間をいただいて、今度は私のブログに遠からず展開したいと思います。
神谷さんにもよろしくお伝えください。神谷さんのブログにまで乗り込んでひと論戦やってしまうなど、非常識ですよね。本意を汲んで私の非礼をお許しください。
刺激的で示唆に富む論文を、ありがとうございました。それでは、ごきげんよう