アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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森さんというひと アリアドネ・アーカイブスより

森さんというひと
2009-04-08 12:33:24
テーマ:宗教と哲学

森さんという人は、やはり普通の日本人とは違ってますね。
森さんが戦後の日本人に感じた不満はわかります。言い方は悪いのですが、そういう人たちと一緒にやれないと思った気持は良くわかります。日本人の集団主義では、枠を通しでしかものが見えませんので、個性や普遍性という概念は、最初から問題にもならないのですね。

でも、森さんの不思議さは、学者さんでもなかったことです。普遍と個別性を考えるところで、森さんは「定義」という言葉をためらいながら持ち出してきます。森さんは自分の経験に生じていることを一言では説明できなくて、仮にこのように名付けています。これは森さんが一歩一歩手探りのようにして探しあげた生活経験の底のようなものであって、他と取り換えのつくようなものではないのですね。「定義」とは共通性のない、孤独な用語でした。

ところで、西洋哲学の歴史を少しでも知るものなら、普遍、個別、特殊性の区別は知っています。媒介されたものとしての特殊性は、普遍と個別性とをつなぐ概念なのです。でも森さんはこんな使い古された言葉を使う気になれなかったのでしょう。森さんの言葉に対する扱いは、まるで大事なお茶道具をあつあうような趣があって、森さんがパリでどんな生活をされてきたかを彷彿とさせるのです。

でも、媒介されたものとは、森さんのいうような見たり感じたりする世界の概念的枠組みのようなものだけではないのですね。媒介されたものこそ具体的であるとは、ヘーゲリアンであった頃のルカーチのいい癖でもありました。日本にいる頃の森さんには、この媒介されたもの、つまり普遍と個別性とをつなぐ実質的なものが生活の実態としてはなかったのではないかと思っています。森さんは、強がっていますけれども、森さんの言葉は共同化されるところを拒否するところがあります。孤独なのです。そこが、単に性格の孤独さというものとは違うところなのです。実存的な孤独さなのです。その孤独さは、森さんの文章にくすんだパリの空の色にもにた薔薇色の不思議な陰影を与えているのです。

ですから、森さんのフランスでの経験は、今一度自分の生を生きなおす過程ではなかったかと思うのですよ。森さんはもう一度自分自身の生を生きなおしてみたのです。つまり単に学的な経験を超えた感覚のレベルではない実質的な経験、個があるということ、真に外国の都市において個人であること、つまり生活の発見のようなものではなかったかと、わたしは想像するのです。

最初にわたしはもうしました。――私が森さんの不思議さと形容したものは、通常は現象学のレベルでの発見でいえば、第一段階、日常的枠組みの撤去、第二段階が、意味的世界への帰還という二段階の筋道をとおることが多いのですが、森さんの場合はこの双方向の過程を、一度だけで済ませていることなのですね。つまりデカルト的懐疑の遂行によって得られた<もの>的世界の発見が、自然科学的な認識の問題を越えて、実質的な意味を持っていたことです。

わたしには、森さんがフランス語を母国語に選んだときに感じた、日常性の方からくるずっしりとした抵抗感、フランス語という言葉のもつ手触りのような感じが、国内限定型のわたしにはどうしても掴めないのですね。森さんはそれをヨーロッパの文化、というように一般化して言うことすらできました。でも、私にはもどかしいほどに、ヨーロッパ文化の歴史・社会、リアリティのもつ意味について、森さんの言うその世界に手が届かないのです。わたしは森さんに日本語がまるで下等な人間の話す言語のように言われて、傷つきました。でも、少なくともそこには私の知りえない森さんの世界があり、パリの体験がありました。それがわたしが森さんに感じた距離、日本人としての不思議さでした。日本人としての、先輩に手向けられた、真摯さと、尊敬と、驚異の念すら感じさせる不思議さでした。

森さん。さようなら。