アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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☆前田保 『滝沢克己 哲学者の生涯』――立沢克己との出会い 私の場合 アリアドネ・アーカイブスより

☆前田保 『滝沢克己 哲学者の生涯』――立沢克己との出会い 私の場合
2012-04-29 14:12:57
テーマ:文学と思想

「雪荒れの山路の夜を下るときも議論止めざりし滝沢克己
西友

 

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滝沢 克己(たきざわ かつみ、1909年3月8日 - 1984年6月26日)

 

・ 読み始めて何度も本を伏せて読み続け読む継いだ。意味が解らない感動、感情の質は懐かしさと云う情感に近い。それでいて名前のみは知っていて具体的には何一つ知らないと云う事実。実を云うと滝沢克己とは幾度かすれ違っているようだ。先月古き博多の社家町と云うところを散策した折に、何げなく気にとめた、民家と見まがうかのような荒廃した教会の佇まい、何時も携帯している写真に収めたのも理由があったのであろう。この評伝を読みながらそこが滝沢克己が洗礼を受けた教会であることが解った。小さな偶然の一つであったのだろう。晩年の滝沢が失明直前の不治の病を得て通った清明教と云う新興宗教の本山が福岡の東区・唐の原と云うところににあるが、滝沢が無くなるまでの1980年からの5年間において、一時期私は1983年ごろの短い期間をそれと知ることなくゼネコンのいち建築技術者として敷地の一角を借りて過ごした。本部は神式の神殿と仏殿が混在する一風変わったものだったと記憶している。何れもすれ近いと云う以前の、他人同様の遠い遠い、単に同じ場所にいたと云うだけの関係なのであるが、ただ確かに同じ時期に同じ場所に於いて同じ空気を吸っていたのだと云う親近感は否定できない。結局こうした事を書くと感傷的な文章になるのは、滝沢がもはやこの世にない人であるからなのである。

 この書は簡易な評伝と云う体裁をとっているために、前記のエポックメーキングな出来事としての西田幾多郎やバルトとの関係には表面的にしか触れていない。両者について詳しくないので、前田の簡易な記述からは十分に読みとることが出来なかった。また、戦後60年代の全共闘時代の山本義孝との応酬にしても、本書の簡潔な叙述からは何事かを読みとるのは困難だった。本書は滝沢克己に関する初の評伝として、生涯の出来事を平易に時系列に語ることによって、単純な事実の積み重ねが齎す印象以上のものを意図しているわけではないのだが独立した作品としての得られた印象はさにあらず、それを超えたもの、滝沢克己とは大したものだった、滝沢と云う男はただものではなかったと云う事である。九大在籍時は別として、1947年の赴任から75歳、1984年の逝去に至るまでの四十年近くを、この福岡の土地で過ごしたことになる。そして、確かにその時代を、関係ないところ、全く異なった次元の世界で私も生きていたのである。

 何ゆえ滝沢克己に関心を持ったか。1969年当時の東大全共闘議長山本義孝との間になされた往復書簡のことが長い間気になっていたのである。本書の短い記述から読みとれるのは、九大米軍ジェット機墜落事故以降の滝沢が「無期限ハンスト」と云う行為の「無期限性」であることの意義について語り、一方山本は当の滝沢の行為なりそれを支える思惟が「観念的超越」に陥らないか、と問う訳である。

 滝沢は観念的超越あるいは疑似普遍性の誘惑について是認しながら、山本らが云う「自己否定」なり「自己限定」が陥りやすい隘路について語る。この対話は十分には噛み合わなかったようであるが、評伝を読了した段階で云えることは、滝沢の生涯を超えて生涯の中に一貫する重いテーマであったと云う事が理解できる。すなわち幼きより神童の形質の片鱗を見せていた滝沢に関わる飛び級問題時に母親が見せた英明でもあれば慎重な判断、つまり予見出来る子供の不幸を見守るほかはない親の立場についてである。この問題はよく考えると、戦時中に於いては戦場に教え子を戦地に送る教師の姿として、そして最後は決定打のように最晩年の末娘・比佐子の死として繰り返されるのである。論理や結果論の問題ではないのである。親は、子供にとって明らかに不利な結果になると云うことが分かっている選択においてすらも、黙って見守るほかはないのだろうか、その非力さと無力感、60年代の政治的季節において滝沢の前を通り過ぎて行った山本を始めとする全共闘の青年たちの群像もまた、滝沢の実存的な文脈に於いてはあるいは親子論として、あるいは教育論として読みこまれなければならなかったのである。滝沢にとって全共闘運動とは日本の政治史上において初めて、単なる政治運動を超えて、自らの実存を運動体の中に力動的な過程として組み込んでいた点にあった。将来を嘱望される素粒子に関わる物理学徒として東京大学研究室と云う特権的な場に於いて成される一連の研究と、王子における政治闘争に関わる実存としての自らが齎す距離感について、そしtげそれが、平和な日本の現実とベトナムとを繋ぐ距離についての純粋に幾何学的な関係について、相似的幾何学性の埋める事の出来ない距離について語った山本義孝に於いてこそ、その点は特に著しい。

 滝沢については今後も関心を持ち続けたいと考えているが、西田にしてもバルトにしても私にとってはしんどい、まだこれからである、と云う気がする。まだまだ先延ばしできる課題のように怠惰な私としては先送りしたい感じなのだ。二百ページに満たない本書のような短い評伝に於いて、様々な問題や先鋭的な課題幾つも幾つも立ちあがってくるのを瞥見することが出来るのだが、気力的に立ち向かえ得ない、とは言えその中でただ一つ特記したいと思う事は、キリスト教のあり方についてであった。
 具体的には、洗礼や聖書講読を如何に考えるか、と云う点についてである。キリスト教徒であるならば当然視されるかもしれないが、――つまり聖書と云う「壁の外」に、洗礼と云う行為の外側に神はいないのか、と云う問いである。洗礼と云う儀礼的行為や聖書の読解に拘わることは、キリスト教との外側にいる人々を見捨てると云う行為を自らが選択していると云う事について、正統キリスト教とはどの程度自覚的であるのか、と云う問いである。滝沢はマルクス関連の書物を読んで、経済法則と経済原則を区別する宇野弘蔵のものの考え方に共感したと云う。同様にイエスとキリストの関係、歴史的存在あるいは象徴や「兆し」というものと、本質が愛であるところの神の存在の関係を如何に捉えるか、と云う問題でもある。

 滝沢克己の75年に及ぶ生涯は、かかる現実を二重の観点から理解し、かつかかる観点から歴史的現実に関わって行く生涯に他ならなかった。滝沢は戦前戦後を通じて変わらなかったと云われるが、これが褒め言葉であるにしても、時間を通じて変わらなかったのではなく、その生き方が現実的な課題に常に既に貫かれていると云う事に於いて、変わらなかったのである。単にリゴリスティックに自己の理想なり思想を堅持するだけなら教条主義者でも出来る事なのである。滝沢の場合は歴史的課題に常に既に貫かれているがゆえに、その関わりも一期一会とも云うべき試行錯誤の過程と破綻を時には見せるのである。滝沢の生涯を痛感して一番感じた事は、これほど毅然として、語の正確な意味で「哲学者」でありえた男の、わが子の教育において示した優柔不断さと態度保留のもどかしさである。不幸な結果となるのが解っていても親は子供の選択について半ば傍観者として立ち会うほかはない、その受苦と非力さの想いは、わが子の想いに聖性を予見したマリアとヨゼフと云う二千年前の、平凡な市井に生きる夫婦の思いの歴史的・神話的反復ではなかったのだろうか。