アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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歌舞伎と文楽の新参者 アリアドネ・アーカイブスより

歌舞伎と文楽の新参者
2012-11-17 12:37:21
テーマ:音楽と歌劇

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・ どう云うものか人には好き嫌いと云うものがって、同じ古典芸能でも能や茶道には一目ぼれのような形で馴染めるのに、歌舞伎と云えばそうはいかない、愛読する谷崎の『細雪』の中で関西の三姉妹が上京する楽しみの一つとしているのが歌舞伎の観劇で、こんな時しみじみと自分を田舎者だと思う訳です。それで、その歌舞伎座が解体すると云うので建築の仕事もしていたのにこれではあんまりと、最終公演に出掛けたのがパンフにある一昨年のことでした。
 歌舞伎は博多座でも見ているし――”絶景かな!”などなど――テレビでも何度か見ているのに馴染めない、折角出かけた歌舞伎座公演も印象に残らず忘れていたのですが、先日人形浄瑠璃のライブをホールで鑑賞して、何かが違うのだぞ!と思い始めたのです。演目は「鬼一法眼」、それで二年前のパンフレットを探し出して読みなおし、それから偶然に手に入れた橋本治と云う人の『浄瑠璃を読もう』で、「菅原伝授手習鑑」の項目から読み始めたのです。読み進むうちに内容が重たくて、登山の時のように何度か休憩を入れました。「寺子屋」に出て来る梅王丸、松王丸、桜丸の三つ子三兄弟と、『鬼一法眼』の三兄弟のドラマ、類似性の一致に驚きました。一方は菅原道真の政変劇を物語の大枠としながら庶民丸出しの三兄弟の世話物的悲劇を自在に語る浄瑠璃作者の無神経さと荒唐無稽さ!他方は平家全盛期に話題を取りながらやはり鬼一以下の三兄弟の苦渋に満ちた家族のドラマだったのです。

 歌舞伎、浄瑠璃と並べてみながら思ったのは、町人の芸能、庶民の芸術と言いながら、なかなかどうして、お江戸八百ハ町の町人の倫理観の中には武士道倫理がしっかりと根を張っていた、と云う事です。社会に矛盾があるからと言って江戸の人間は、由比正雪大塩平八郎のような直情的な行動に出る「野暮」な人間が好きではないのです。体制の枠組みの中にあって、既存のモラルの範囲の中で、モラルの内在的純化をとおして社会を自己矛盾的に克服する、というか、まあ、ひねくれていると云うか、都会人の自虐と云うか、アイロニーの美学を好んだのですね、ここのところが従来の歌舞伎論では言葉が足らないのです。橋本治の同書を読んで初めてこのことを教えられたのです。それにしても橋本治と云う人、凄い人ですね。日本の古典芸能の代表格である能と歌舞伎を比較して、一方はお武家の式楽、他方は町人の芸術と分類して安心しているような人がいますが、そういう話ではないのです。橋本さんのような凄い人もいますが、押し並べて日本と云う国は人がいませんね、人を育てようとしない、「もの」の真偽が全てで、芸術を何か鑑定のようなことと勘違いしているのです。

 歌舞伎や文楽浄瑠璃)に対する趣向と云うものは、一日にしてなるものではなく、幼少の頃よりの教養や素養、もっと極限化して云えば何代にもわたる伝統や伝承と云う物の中で骨相学的に醸成されて行くものなのかもしれません。能や茶道の所作はそうしたものです。
 他方、私たち近代主義化の教育を受けた者にとってはその素養や教養が如何に西洋の一流の学問の理解の基にあるとはいえ、芸術的感性の質としては「田舎者」たることをまぬがえれえないのです。何となれば、西洋的美意識とはフランス革命後の、見るものと見られるものの間に成立する一面化された二元論に立脚したものにすぎず、その素養の幅は自らの限界の外にあるものに理解が及ばない傾向が強いのです。
 
 それでも私たちが知性や論理を用いて、自分たちには不向きなもの、十分立ちの趣味や趣向の領域の外部のあるものを理解しようとするのは、教養や素養、建前の問題ではなく正当な行為なのです。芸術は趣味判断ではありませんから、本来的に自分に不足している感受性の質を復元する、と云う行為もまた正当な鑑賞の態度なのです。その為には多様な学問や情報量が駆使されます。ルソーの教育論ように無前提のカンバスにあらゆる先入見を排して向き合う事が良いことだと考える印象批評や、その現代的な形態であるテクスト論では、みすみす多様な芸術と出会う機会均等の幅を自ら断念しているとも見え、勿体ないことだと思います。

 芸術的理解には天性と云うものがあります。しかし芸術は趣味判断ではありませんから知性を用いて理解の型を、感受性の質を追体験することが出来るのです。追体験とまでは行かなくても、遠い古代の感受性の質を復元することも出来るのです。橋本の同書を読みながら、漫談のような自在な語りに耳を傾けながら、従来から考えていた書記性言語と口承性言語の違い、歌舞伎があって何故文楽浄瑠璃と云うものがあるのかという示唆をえて、改めてとめども尽きぬ古典芸能の世界の奥深さに目を見開かされました。

 所作に重きを置く歌舞伎があり、テクストを有する文楽浄瑠璃がある。歌舞伎に馴染めない方は文楽浄瑠璃の世界からどうぞ、と橋本は書いているが、広き門だけではなく狭き門から入っても良いのである。理想的にはこの二つの世界を往復して、眼まなこのように複眼的に立ち上がって来る古典芸能の世界があるのかもしれない。歌舞伎だけでもない、文楽浄瑠璃だけでもない、書記性と口承性、所作とテクスト批評を超えた超えた古典芸能の世界があるのではないのか、年齢的に間に合わないのかもしれないが、そうした世界の可能性を垣間見ると云うだけでも、貴重な経験であった。

 それにしても、歌舞伎に文楽浄瑠璃の世界があるように、能楽にも狂言舞楽の世界が対となって今日まで伝えられてきている。歌舞伎は演じるものであるが文楽浄瑠璃は聴くものだとも云う。歌舞伎、文楽浄瑠璃は日常性の中で特権的に演じられた空間的表現であるとすれば、神韻縹渺の中に書き消える能楽の世界は、終わりと始めを欠いた、日常性と非日常性の逆転した構造の中に成立した芸能である。
 芸術ではなく芸能であると云う傾向が強いと云う意味では、茶道はより自覚的に徹底している。ここでは見るものと見られるものは劇場や斎場と云う特権的場で会するのではなく、茶室と云う閉鎖系の場で、主客の蠢く息と息づかいとが重なり合う、「近すぎる」近視的な情緒の中で濃密に演じられる。古人は、かかる情感の重たさをあえて「淡交」とは読んだ。つまり人と人との出会いとは一刀両断に振りきれる一期一会である、と云うのである。

 日本古典芸の、かように多様な展開は、共通部分を有しながら差異があり、差異を利用して芸能、ひいては芸術的感受性の立体化と云う事態を、芸術経験としてではなく、国民の経験として成立させていた、と云う事情があったのかもしれない。
 泉鏡花に『歌行燈』と云う世界があるか、これなどはかっての古きよき日本人の面影を伝える貴重な記憶である。一対の男女が惚れた腫れたと云うような話ではなく、西洋流の愛の超越性と云う事でもない。謡いや仕舞と云う素養を通じて、素養ななければ決して出会えないような奇跡のような時間を描いた、さもありなん、と思わせる古い日本の記憶なのである。
 技芸を嗜むとは、複数である方がよく、できれば多様である方がよい。その同一と差異を通じて醸成されて来る、未聞の世界、そうした失われた世界を仄かにとば口に立って想像させるのである。

 最後に、旧歌舞伎座の全容ですが、西洋のオペラ座のような豪華な世界を勝手に想像していたので、内部空間の建築的演劇性については多少とも裏切られました。即断するには及びません。これは勝手に西洋の概念を持ち込んだこちらの方が悪いので、感受性と云うものは過つことがある、と云うのがこの度の教訓なのでしたから。