成瀬巳喜男の『山の音』 アリアドネ・アーカイブスより
成瀬巳喜男の『山の音』
2013-08-16 23:20:33
テーマ:映画と演劇
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・ 川端康成の『山の音』の映画化である。鎌倉の閑静として端正な住宅地を舞台に、老若二つの世代の夫婦の間に演じられる、隠微な愛のロマンティシズムである。ロマンティシズムは時に、濃厚な川端文学のエロティスムとして鬼火のように、蛍火のように明滅する。川端文学が持つ不気味さは、映像ゆえにより白黒の画像に鮮烈に焼き付けられる。川端文学の秘められた非情さは、映画技術の即物性ゆえに、より尖鋭化されているかのごとくである。カラー作品であったならば、随分と印象も異なったものになっただろう、と想像する。
川端文学の最高峰を、映画監督、成瀬巳喜男の映像による、鮮明な映像化である。
「菊慈童」ウィキペディアより
・ 鎌倉に住む会社重役の夫婦の長男夫婦は二世代の同居家族だが、若夫婦には子供がいない。子供がいないだけでなく、若い夫は公然と外に女があるだけでなく、同じ会社の父親付きの秘書との間にも、職業的な付き合いを超えたものがありそうである。それを隠す訳でもなく、半ば公然と夜遊びをするので、帰宅は深夜になることが多い。若妻の菊子も心を痛めているが、それ以上に舅である会社重役は、菊子が不憫でならない。
ところで舅の菊子に対する関心だが、夕餉の材料を買って帰る妻と帰宅途中一緒になったり、舅が勝手に買い求めたサザエが菊子の伊勢海老や海鮮と同種であるのをお互いに話題にしたり、親密この上ない。ある日などは、元気のない菊子を言っ気づけようと、女中が口にした鼻緒の「緒ずれ」と「お擦れ」の発音の違いがどうのこうのと――東京育ちでは両者の違いを発音で区別でき、地方出の女中には出来ずらいらしい――面白くもおかしくもない話題を盛り上げて、姑の嫉妬さへかうことになる。また、舅は親身になって心配しているだけでなく、菊子のことを何から何まで良く知っているかのごとくである。例えば、菊子が生まれてきたとき、分娩がスムーズにいかず、額に鈎を掛けられて強引に引き出されたので、その傷が未だに残っていることなど。要するに、通常の舅が知りもしないようなことを、日ごろから耳に止めていて、こうした出産の事情までが不憫でならないのであるから尋常ではない。
舅はこのまま放っても置けないと、果敢にも行動に出る。手始めに手短なところに入る自分の秘書に、息子のことを聴いてみる。秘書は意外なことに、自分の知りえていることを話しただけでなく、付き合っている女には同棲している女の友人がいて、彼女を通して事を進めた方がスムーズに行く、などと謎のようなことを言う。
秘書の女は、それで舅を付き合っている女とその友人の家に案内するのだが、そこで決然と、こうした行動を自分に許したからにはもはやこのまま会社に居続けることはできないと宣言し、果敢にも辞表を宣告する。秘書の決然とした潔さは異常ですらある。彼女に云い分によれば、こうした社内社会の関係を許容することは道徳的な堕落を意味するので、この辺で打ち切りたいと願っていたのだと殊更に言う。その宣言通り、これ以降、観客が彼女の姿をスクリーン上に見出すことはない。
舅は日を改めて女の友人宅を訪れる。女の友人は家庭教師か家庭塾で子供たちを教えているらしく、生活ぶりには破綻があるようには見えない。舅が要件を切りだす中で、女はタイピストらしい仕事をしているらしく、経済的な援助は受けていないことを舅は理解する。また彼女が戦災未亡人であることも。友人と同居している意味はレスビアン以上の、人格的な理由すら予想させる。それに戦後の経済的事情では一つの家をシェア―すると云うのも、不自然ではないだろう。
ところが舅と友人が話しているところに、予想もしなかった当人が帰宅する。一切の事情を理解した女は舅と対峙するのだが、悪びれたところは微塵もみられない。身寄りもない戦災未亡人の生き方の悲哀を漂わせながらもなおも心持としては気高く、息子と別れる事情を了解してくれるのである。
通常は、夫が家庭の外に女を作ると云うと、不道徳でふしだらな酷い女を想像するものだが、むしろ自堕落なのは男の方であって、秘書を含めて三人の女たちには非難すべき点など見当たらない、と云った描き方なのである。むしろ女の友人は、舅を取り囲む家庭問題の全てを見通しているかのごとく、『山の音』の物語的世界の構図を理解しているかのごとく、二世代同居を解消できないのかと、差し出がましくはないのかと自責しながらも、自ら疑惑を舅に投げかけるほどである。つまり問題は息子に問題があるのではなく、舅と嫁の睦まじさにあると云わんばかりである。
これにはもう一つの、長女夫婦の互いの不和が絡んでいて、長女は甲斐性のない夫を見捨てて実家に帰って来る。実家が裕福だとこうなるのだろうか。とは言え家族が増えることで、家事を切り盛りしている嫁の菊子の負担も自然に増え、それがまた舅の目には余計に不憫に映じる。しかし姑に云わせれば実の娘よりも長男の嫁を可愛がる態度にも問題があるようだ。
このままでは菊子が持たないとみた舅はある日、直截に息子を呼び出して警告する。これは意外に素直に息子に受け入れられて、さらに舅が長女夫婦の問題解決を息子に依頼したことから長男としての面目を施し、再び家庭にも寄りつくようになったようだ。菊子の美しさを見直しているようにも見える。しかし菊子にすれば男の手前勝手差や男社会に対する絶望はそう簡単に氷解するわけもなく、誰にも相談せずに二人の間に出来た胎児を密かに流産させてしまう。事が終わった後で理由を聴いた舅は憎しみが余程であるのを感じて慄然とする。
物事が八方塞に見える場合は下手に動かず、時間の手助けを借りるということも選択肢の一つである。菊子の夫に対する不信や憎しみは完全には消えなかったけれども、舅への敬愛のために嫁は夫の元に帰っていくことを決意する。このあと一事が万事上手くいくとは思えないのだが、それでもそれが唯一の菊子にとっての生きていくための現実であるのだとすれば、それが修羅場であろうとも、唯一の人生と云うべき戦場に復帰する以外に彼女が生きる場所はなかったのである。
菊子の決意の健気さを知った舅は、鎌倉の家を若夫婦に譲って、自分たちは二人お前から身を引いて、郷里の長野に分かれて暮らすことを決意する。
まあこの映画の何が怖いかと云って、夫を誘惑する不埒な女をどんな女かと観客は想像するのだが、その女が中々に登場せずに、中間的な仲介者に隔たれて徐々に、しかし最後は唐突に、いきなり舅と対面して対決する気迫ある場面ですね。そこには健気にも戦後の混乱期を女の細腕一つで生き抜いていこうとする女の清冽さがあります。女の端正な生き方を前にしてたじろぎ、と云うか、こちらを見透かすような怖さを感じるほどだが、夫がこの女性に魅かれたのも納得できるような気がする。またこの女に気配りを示す友人なる女の友情も理解できるような気がする。女同士の不可解にしてエロティックなリリシズム、これも川端文学が得意とするものでもある。
これはあくまで想像なのだが、夫は明らかに戦争に傷を受けている。戦時の時間経過と戦後の日常的な時間の流れが上手く整合し繋がらないのだと思う。夫と女は心に傷を受けた者同士心理的に通い合うものがあったのではなかったか。お嬢さん育ちの、何一つ不自由を経験しないで今日に至った菊子の無垢さが我慢ならなかったのであろうか。
最後に「菊子」の名前の由来だが、日本では悲劇のヒロインを意味することが多い。また、劇の中ほどに舅が古美術愛好家に能面の購入を薦められる場面があるが、「小面」――こおもて、若い女の面――のようにもみえるが、美術商の説明では実は少年の面だと云う。「菊慈童」と云う能楽があるが、永遠に歳をとることが出来ない、性別を超越した少年の話である。舅は菊子に面を付けて俯けたり仰向けたりさせて彼女の所作を、面の幽玄にかこつけて自慰的に楽しむ場面があるが、最もエロティックな場面である。舅は嫁の中に、永遠の青春の癒されることのない、少年のような透明で不易のエロティスムの虜になっていたのではなかったか。
舅がもともと愛していたのは現在の妻ではなかった、とされている。美貌の妻の姉をこそ愛していたのを諸般の事情で妹の方を嫁として迎えた、妻は青春の代理人でしかなかったわけである。
舅は、永遠に埋める事の出来ない憧憬の念を抱いて長年月を生きてきたわけであり、年齢を重ねるにつれて、歳を老いうることに対して抗うように異様になまめいた若々しい感情を抱いて生きてきたのである。老人の永遠の憧憬の対象として選ばれたのが、例えば菊子だったのである。
老人が、自らの老いを受け入れたとき、老人の修羅能めいた物狂いの世界もまた終わりを迎えることが出来るのであろう。
老境に入りつつある老人のエロティスムを描いて、鈍いはなだいろに赤茶けて色褪せた風景の中に炙りだされるようにして浮かび上がって来る青春の痕跡を描いて、癒されることのないその憧憬に満たされたロマンティスムの華やぎを描いて、成瀬巳喜男の映像は完璧であるようにみえる。
主演を演じた山村聰の父親が実によい。会社の要職にありながら、家庭内では子供のしつけ一つ出来ない甘い親である。しかも上手く云っているときは良いのだが、妻は問題が起きるとそれを全て夫のせいにし、夫が解決しなければならない課題であるかのように諄々と説教をする。まるで夫が最愛の人と結婚出来ず代理として自分を選んだこと、その人生論的な打算ゆえに彼が当然支払うべき自分に対する代償であるかのごとく、夫を責めつづけ時には辛らつに揶揄する。しかも、目立って意地悪と云うのではないが嫁の言動には無関心であり、そこに嫉妬心すら秘匿させている、何と云う妻であろうか。
父親は、老妻に押し出されるように社会や会社へ、外へ外へと問題解決のために押し出される。息子の不倫の相手と交渉し、交渉するために果敢にもその代理とも、あるいはその方棒を担いだとも思われる自身の秘書の女性をも問い詰める。その結果秘書の女性は謎めいた言葉を残して退社するに至るのだが。
非力な父親が、小津映画とよく似た設定の中で、これはまた正反対の行動力を駆使して問題の核心に至る、その真摯さは半ば滑稽ですらある。
原節子と上原謙と云う二大美男美女スターの端正さも実によい。特に上原の端正な美貌が、後半、父親の説得を受けて素直に反転する、その不自然さをそう思わせない自然さを感じさせる、美貌とは男優の場合にあっても偉大なものである。
原節子の良妻賢母ぶりも物語的世界の不気味さを際立たせるのに貢献している。こんな嫁がいたら誰しも自分の娘よりも愛情を抱いてしまうかもしれないなどと思わせる無垢なるものへ手向けられた愛惜を、自然なものとして納得させるものを演じている。
山岡照子の悪妻ぶりも良い。悪妻と云うのではなく、おっとりと済ましている育ちの良さを漂わせる良妻が、時に意地悪く夫をチクリチクリと遣り、滑稽な行動へと追い詰めて行くのもよい。
しかし何と云っても壮観なのは、女同士のエロティスムを演じた三人の女優たちである。問題の女性を演じた角梨枝子、その友人の丹阿弥谷津子、秘書を演じた杉葉子、夫々にエロティスムと云うか不可解な悪の倫理との対峙を演じて、理由の解らない恐怖に身震いするほどである。怖ろしいことが同時に美しくもあり得る事の不可解さを、川端文学の本質を描き出して感銘が深い。